無相と公案

ワン爺の独り言(2017年12月23日)
「真実のやさしさとは何か?」という問いに対する一つの答がここに述べられています。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou314.htm



(以下引用)

【無相と公案】

相を示すということは、親近感を与えたり、逆に嫌悪感や恐怖を与えたりするものである。無相は、それらから離れ、情欲そのものを超 えたときに現れる。この意味を理解したならば、無相は無表情では無いことが分かるであろう。なぜならば、無表情は一つの相に他ならないからである。

(情欲を超えた)本心を相手にさとられないために、無相となる。そこにおいてこそ真実のやさしさは完成を見る。このからくりが問題ではない。真実のやさしさとは何か?ということが問われているのである。

「一円の公案」も「医師と患者の公案」も(久松真一氏の)基本的公案も、無相が根幹である。無相を完全に理解したならば、それぞれの公案を適宜に通過することを得るだろう。

(以上引用)


*ワン爺のコメント

今回の理法を学ぶに際して、SRKWブッダの次の文章ををお読みください。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana034.htm

(以下引用)
【公案の功罪】
いわゆる公案を解くことによって、覚りの境地に近づく人があるのは確かなことである。 なんとなれば、公案に取り組むことは観(=止観)の一方法であると認められるからである。 実際、世にはよくしつらえられた見事な公案が確かに存在している。

しかしながら、人は公案を解くことによって覚りの境地に至るとは断定的には言えないことである。 けだし、人が覚りの境地に至ることは、一切の手続き的なことがらを離れた、不可思議なる因縁によっているのであると知られるからである。 そしてまた、世に広く狭く知られたさまざまな公案の中には観の役には立たないもの(つまり公案とは言えないもの)も多く含まれており、道の歩みの頼りにはならない。

それゆえに、聡明な人は、公案によって覚りの境地に至るなどと考えてはならない。 たとえ取り組んだその公案が、観に役立つ、公案と呼ぶに相応しいものであったとしても、人が公案を解くということにこだわってあり得べき観(=止観)を為さないのであるならば、それらはすべからく人を迷わせる悪魔の説と化してしまう。

不滅の安穏(=ニルヴァーナ)を求める人は、知識によらず明知によって道を見極め、学問によらず学識によって真実を知り明らめよ。 修行者は、人としてのあり得べき観を為し、自分ならざる何ものにも頼ることなく、他ならぬ自らによって自分自身を円かなやすらぎへと至らしめよ。 たとえ、公案を縁として覚りの境地に至った人がいることを耳にしたとしても、だからといって公案が修行に役立つ特別なものであると見なしてはならない。 公案へのこだわりを離れることそれ自体が、最後の一関たる究極の公案の一つの真意に他ならないからである。
(以上引用)

SRKWブッダは真実のやさしさについて、相手を喜ばせることではなく、自分自身を含めて誰も悲しませないことと表現されていますが、その真意は無相になることだと思っています。


この記事へのコメント

toshi
2017年12月23日 07:55
 無相は「覚り=解脱の境地」に伴って表れ出るものだと思います。私たち衆生には、日常の行為において何らかの「心の動き」がある以上、「何らかの相」が必ず伴って表れます。・・・しかし、「覚り=解脱」に到った覚者(さとれる者)は、「衆生と同じような行為」を行っていたとしても、そこに「情欲などの相」の存在は認められません。・・・故に、そこには「真実のやさしさ」のみが存在している状態であると言えると思います。