仏教に勤しむ

ワン爺の独り言(2017年12月4日)
仏教に勤しむことに関して、何をどうすることか決まりはありません。各自がそれを見つけて励むことです。その際、それが仏教を勤しんでいるのかどうか判断する基準があります。それは静けさが増すかどうかです。静けさが増したならば、その人は仏教に勤しんでいるのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou295.htm



(以下引用)


【仏教に勤しむ】

仏教に勤しむ修行者は、静けさが増す。これが、仏教に勤しむことの利益(りやく)のすべてである。

静けさが増したならば、その人は仏教に勤しんでいる。仏教に勤しむ人は、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達すると期待され得る。


(以上引用)


*ワン爺のコメント
SRKWブッダが提案する修行法の例は次の通りです。
・観を為し、観(=止観)を完成させることは誰にとっても修行となり得る。観を完成させたならば、心解脱者となる。
・公案に取り組み、最後の関たる(久松真一氏の)基本的公案を通過したならば、心解脱を完成したと認められる。このとき、自分が心解脱したという実感が生じる。
・経典を読誦することは、修行となり得る。修行しているという実感は伴わないであろうが、因縁があれば身解脱を生じて阿羅漢果を得ることも不可能ではない。
・善き談論は、修行となる。修行者は善き談論によって次第次第に覚りに近づき、因縁を生じて解脱すると期待され得る。
・省察することは、修行となり得る。他ならぬ自分自身の行為について省察するならば、確かな覚りの機縁へと結びついて行く。
・何もしないことが修行となることがある。悪いことをするよりは、何もしないことの方がすぐれているからである。
・功徳を積むことは、つねに修行となる。ただし、功徳を積むための修行法など存在していない。功徳を積む人は、自分でも知らず知らずに功徳を積むものだからである。

以上です。

この記事へのコメント

toshi
2017年12月04日 10:43
 振り返ってみれば、全ては因縁(仏縁)の有り難さだと思います。特段、仏教の教えに勤しむ気持ちを持たなくても「その教え」に出会い、自然と次第次第に「静けさ」を目指す道を歩み行く・・・。「偉くなろう」とか「金持ちになろう」等という、おかしな野心?を持たなかったのが尚更良かった・・・。因縁(仏縁)の不思議さに、何より感謝感謝です。
ノブ
2017年12月05日 00:40
怒りの根がないことが静けさではないだろうか。