宗教には属さない

ワン爺の独り言(2018年1月12日)
今日から、SRKWブッダの「理法」に変わって「感興句」を引用させていただきます。はじめに、「人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。」ことを述べておられます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana001.htm



(以下引用)

【宗教には属さない】

世人が、この世の繁栄の継続あるいはその増進,転換を願い、また来世での幸福とを願って、自らに依らずにそれを達成しようと祈り行なう儀式、教義およびそれらにまつわることがらの総体を<宗教>と名づく。

しかしながら、人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。それゆえに、もし人がやすらぎを求めるのであるならば、宗教と名づけられるあらゆる迷妄と妄執の所産からこころを解き放ち、それだけでなく世間の束縛のくびきをすっかりと離れて、世間にあって世間に汚されることなく、よく気をつけて遍歴すべきである。人は、そのようにして正しい道を見い出すのであり、異教にさそわれることのない人が、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至るのである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
ブッダの「感興句」とは何かを、電子書籍「感興句」の「はじめに」に述べられいますので、それを引用します。

(以下引用)
もろもろの如来、つまり生き身の仏は世の人々の問いに応えて理法を説く。いわゆる説法である。しかし、説法はどうしても説教じみたものになってしまう。衆生たる人々の問いは未熟で、本質・核心に迫る問いをなかなかなさないからである。したがって、その問いに対する答えも如来の本質をなかなか反映したものにならないのである。

 ところで、如来たちは時として誰からも問われないのにふと思いを込めて言葉を発することがある。それが感興句である。この感興句は、如来たちが機縁に応じて世に出現せしめた法の言葉そのものである。それは、如来たちにしか発することができない世に誦出された法の現れに他ならない。そこには仏の本質、覚りの真相、法(ダルマ)の根本にまつわる言葉がちりばめられている。

 さて、本書は釈尊をはじめとする過去の仏たちが発した感興句を引用したものではなく、現代の仏たる私(=SRKWブッダ)がこれまでに機縁に応じて発した感興句の中から修行者が覚りに近づくのに役立つであろう言葉を抜粋し、内容ごとに章・節を分けてまとめたものである。

 聡明な人は、この本に記されたそれぞれの言葉が人智を超えたところから発せられた智慧の一端を表すものであると知って自らの覚りの道を必ずや堅固ならしめるであろう。感興句とはそのような働きをもつ言葉なのである。
(以上引用)

というわけで、「感興句」は「理法」より難しいかもしれませんが、しばらくお付き合いをお願いいたします。

さて、本日の感興句については、世の人々は、不滅の安穏に至るその道を宗教に求めているのが実情です。その道はそこにはないということです。

この記事へのコメント

toshi
2018年01月12日 07:32
 今日から「感興句」(ウダーナ)ですね。・・・私も一修行者として、またブログを読んでくれている皆様が「少しでも理解を深めて貰えるなら・・・」という気持ちで、コメントの投稿を続けたいと思います。よろしくお願いします。
toshi
2018年01月12日 07:42
 過去に「新興宗教団体」に所属していた時、「日本には約30万の宗教団体がある。」と聞いた事があります。・・・とてつもない数字なのですが、それだけ「迷っている人間が多い」のだと思います。・・・本日の感興句に、「人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。」という言葉があるように、異教に誘われ「迷妄と妄執」にこころを縛りつけられて「覚り=解脱」から遙かに遠のいている・・・それが、世間一般の衆生の姿ではないかと思います。
ノブ
2018年01月13日 00:36
世間の人々は凡そ覚りの境地を目指してはいないのだろうと思います。
しかしながら、全ての人類は確かに覚りへと向かう法の流れの中にあるとも語られています。内道と言われる所以がここにあるのではないでしょうか。
これは、信に関わることで、人は誰でも覚り得る、この事を信じられるなら、世の人々の有様と微妙なる真実を照合する架け橋を得たのだと思います。
人は実はやさしい。と言われるこの事の真相が、人が誰しも覚り得る根拠となるのではないでしょうか。
人は大挙して(群れなして)道を歩む事はありませんが、道を志す人達の言を聴いて、私もまた何か時々にコメントすると思います。よろしくお願い致します。