友・<最上の宝>

ワン爺の独り言(2017年1月13日)
この歳(74歳)になって、久しぶりに「友人」について考えてみました。いろいろ懐かしい想いが思い出されます。幼い頃の友、学生時代の友、社会人になってからの友、そして修行仲間。どのような友が親友(善き友)なのだろうか? そして、何よりも自分が他の人の善き友であっただろうかと考えます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana002.htm


(以下引用)

【友・<最上の宝>】

つまらないことをして見せても友は「すごいことだ」と褒めてくれる。たとえみすぼらしいすがたを世間に晒していても友は「君は大した人だ」と尊敬してくれる。不如意に利益を損なうことがあって、きっぱりと諦め、「それはどうでもよいことであるから」と自ら納得していても、友は「どうでもよくない」と言って励まし、あるいは慰めてくれる。このように、友は危険の在処を指し示してくれ、宝の在処さえも教えてくれるのである。

ところで、最高の友と称すべき<善き友>は、褒めてくれることもなく、尊敬してくれることもなく、励ましてくれることも慰めてくれることもないけれども、実にこの世における最高の宝(=真理)の在処を示し、ものおしみすることなく与えてくれる。かれは、それゆえに<善き友>と呼ばれ<善知識>とも称されるのである。

人がもし、直接に、あるいは間接にでも、<善き友>によって与えられたその宝を得たならば、それはかれに人を超えた楽しみを与え、不滅の安穏へと導き、しかもそれは盗賊でさえも奪い得ぬものとなる。その宝は、それゆえに<最上の宝>(=誰からも奪われることのない無上の宝)と称される。

こころある人は、友と親しみ、それにも増して自らが他の人のよき友であれ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
徒然草の第110段には、友について次のように書かれています。
現代語訳
友とするのに悪い者が七つある。
一つには、身分が高く高貴な人。
二つには、若い人。
三つには、病が無く健康な人。
四つには、酒を好む人。
五つには、猛々しく勇ましい武士。
六つには、嘘をつく人。
七つには、欲の深い人。

よき友が三つある。
一つには、物をくれる友。
二つには、医者。
三つには、知恵ある友。(以上)

この著者の吉田兼好もよき友の最後は知恵ある友としています。
しかし、真実の<善き友>とは、法の句を言ってくれる友(善知識)でしょう。

そして、この感興句の「こころある人は、友と親しみ、それにも増して自らが他の人のよき友であれ。」という最後の言葉は心に銘記すべきだと思いました。

この記事へのコメント

toshi
2018年01月13日 07:31
 今まで長い人生を生きてきて、つくづく「友は良いもの」だと思います。人間は、一人では生きられず、今までどれ程友に助けられて来たか知れません。・・・それが、共に仏道を歩む「善き友」となると、その恩恵は計り知れないものがあります。原始仏教の経典にも「善き友は修行の全てである。」とまで説かれています。・・・私も、「自らが善き友となる」べく努力を重ねて行きたいと思います。
てくてく
2018年01月13日 08:42
おはようございます。てくてくと申します。書き込み失礼致します。

もしも、自分が願うことがあるとしたら、きっと、それは、

”人間を矮小にしないで“

と、それだけを願います。
ノブ
2018年01月13日 23:02
人と仏は子供と大人以上にかけ離れた心的境地に住していると言われます。しかし大人でさえも子供を矮小だとは思わない。子供は子供だと思うだけです。仏も衆生を矮小だとは思わない。
むしろ衆生が無くては仏は無いのではないか。子供時代を過ごさなかった大人が存在しないように。心理的な意味において、大人が子供を頼りに(子供に託して)生きているように。衆生に全幅の信頼を置いているのが仏だと思う。何故か。我が子を疑うような親では真っ当な親とは言えないように、仏が人格完成者と言われるのであるならば、彼(彼女)が衆生を軽んじるということはないだろう。衆生は衆生であると観るだけである。

仏の智慧ある姿に圧されて萎縮してしまっては道を歩むことは難しい。そもそも仏は人間ではないのであるが、自分にも達成出来ると思って精進するしかない。名筆を見て、私には到底その境地に至るのは無理だと思うか、私にも出来るのではないかと思うかの違いは、道を歩む動機を活かすか活かさないか、としてある。しかも、善知識は理法の言葉よりもはるかに高貴で、優れていると言われる。
人は最高こそを求めるべきだと私は思う。最高以外が無意味だというのではなく。何が最高であるか、それを再々に考究することは真理に近づく行為であると思う。情に溺れることはやさしさとはならない。人を傷つけては悪人となる。では何を全うしたときに、それが最高であったと言えるのか。自他を全うせねばならない。
何を失って人は悲しむのか。何を保全したときに、一大事は現れるのか。