争論を超えよ

ワン爺の独り言(2018年1月14日)
争論の始まりは、真実を知ろうとすることから始まるのかもしれませんが、情欲によって真実から離れて行くのでしょう。「ゆえに、こころある人は、たとえ争論の中にあっても争論を超えよ。しかしもちろん、こころある人は争論に近づいてはならない。」とSRKWブッダは述べられるのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana003.htm



(以下引用)

【争論を超えよ】

人は、真実を知ろうとして相手と語らう。そこで、ある者は自らの見解に固執した説を立てて真実にせまろうとする。また、ある者は、自ら抱く見解では何かが違うのであると心のどこかで感じていて、敢えて斜に構えた言葉などを用い、たとえばそのようにして自ら起こした争論の中でその本当の答えを見いだそうとさえする。さらに別の者は、それとはまた違った行動によって真実を知ろうと種々さまざまにはからうであろう。しかしながら、何をどのようにはからおうとも、争論の中に身を置く彼らにとって真実は遠い彼方にある。

ところが、争論の渦中というまさに混沌たるそこにおいてさえも、人は真実にせまることができるという世の真実が含まれ得るのである。けだし、争論を生じ、争論に巻き込まれ、しかし争論無き立場に立脚したならば、真実なる<真実>を自ら知り得ると知られるからである。

ゆえに、こころある人は、たとえ争論の中にあっても争論を超えよ。しかしもちろん、こころある人は争論に近づいてはならない。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
争論に関するSRKWブッダの言葉をTwilogで検索しました。その中からいくつか引用します。
(以下引用)
談論と争論とは、似て非なるものである。談論は安らぎに近づき、争論は地獄へと引き寄せられていく。本人がどのように考えていようとも、それぞれに結果が現れる。こころある人は、善き談論を為せ。それは、静けさに役立つであろう。

求めているものが正しくても、争論によってそれを得ようとするならば、求めるものを得ることはできない。そして、それではその求め自体が違っているのだと言うしかあるまい。静けさの中に求めること。それが正しい求めである。

「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたはじたときに、悪口が起こる。」(スッタニパータ)と釈尊は説く。この根底にあるものが、情欲である。ゆえに、修行者はこの情欲を超えよと説かれる。
(以上引用)

SRKWブッダの感興句にコメントすることは、ブッダの感興の味わいを損ねるのではないかと心配します。
読者の皆さんはコメントに影響されずに、味わって下さい。


この記事へのコメント

toshi
2018年01月14日 07:55
 私自身は「争論」が好きではありません。段々と、互いに声が大きく感情的になり「争論」が「口論」に変質していく気がするからです。・・・争論の渦中にある混沌の中に「人は真実にせまることができるという世の真実が含まれ得るのである」というのは、本当に凄い教えだと思います。・・・私の場合は、「こころある人は争論に近づいてはならない。」という教えを守っていこうと思います。
SRKWブッダ
2018年01月14日 14:52
争論を避ける態度は、聖なる沈黙に結びつく。聖なる沈黙は、止(シャマタ)の機縁となる。止(シャマタ)を行うならば定の完成に近づく。そこにおいて智慧を生じたならば同時に定も完成し、次いで解脱が起こると説かれる。***