因縁

ワン爺の独り言(2018年1月15日)
「人が解脱して覚りの境地に至ることに限らず、この世の出来事はすべからく因縁にもとづいて起こるのである。」を知ると同時に「世のさまざまな因縁を超えて覚りの因縁を生じ、自らの因縁によって円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達」できることを知るべきです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana004.htm



(以下引用)

【因縁】

人が解脱して覚りの境地に至ることに限らず、この世の出来事はすべからく因縁にもとづいて起こるのである。そして、因縁は人為を以てどうこうできるものではないものなのであると言わねばならない。すなわち、因縁は人が為す行為の帰趨とは言えず、それゆえに経験や努力などによって因縁を醸成したり薫習したりすることは出来ないのである。

かと言って、因縁は世間で言うところの運命や宿命と並び称されるものにはあたらず、一部さえもそれらに属さず、つまるところそれらとは関係がない。

それゆえに、人が何を為そうとも、あるいは為さずとも、何か特定のことによって覚りの境地に至る因縁(=<一大事因縁>)を生じるとは断定的には言えないことである。しかしながら、ここなる人が聡明であって、人と世の真実を知ろうと熱望するならば、かれ(彼女)は覚りの境地に至る因縁を間違いなく生じるであろうと言うことができ、それは決して気休めではない。

こころある人は、世のさまざまな因縁を超えて覚りの因縁を生じ、自らの因縁によって円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
因縁についての感興句を学ぶに当たって、思い出してほしい理法があります。「因果と縁起と真如」です。その文章を再度引用します。
(以下引用)
【因果と縁起と真如】

因果は、ここに明らかな果(結果)があり、あれがまさしくその因であったと当事者に確信され、また第三者から見てもその(当事者が確信した)あれがまさしくその因であると考えられるという場合においてさえ、因果を確定することは実はできない。それゆえに、因果(因果律)によってことの真相を知ろうとしても、それは無理なことなのである。

その一方で、縁起は、ここに明らかな報(結果)が顕れ、あれがまさしくその縁であったと当事者に確信された場合、その(当事者が確信した)あれが真実に縁であったと正しく確定され、それが覆ることはない。それは、第三者に認定してもらう必要のないものであり、決して妄想ではなく自分自身の心に確かな頷きをもたらすものである。 したがって、縁起の考察によってことの真相に迫るならば、それは少なからぬ利益(りやく)をもたらし、ひいては快・不快や善悪などの世の軛を超克する機縁ともなる。

ここなる人が何者であるか。それはかれ(彼女)が為す行為によって知られることになる。その一方で、自分が何者であるかを知りたい人は、自分のまわりにどのような人が集い、どのようなことが起こるかを見ることによって知ることができるであろう。それを正しく知ったとき、つまりその真実のすがたを見たとき、かれ(彼女)は世の一切の軛を超克している自分自身を発見することになるのである。

他人であれ自分であれ、為し終わった行為を褒めても責めても許してもそれは時間つぶしに過ぎず、解脱の機縁とはならない。しかしながら、他人であれ自分であれ人の行為の根本の「それ」(=縁起)を見るならば、それが解脱の因(=直接の要因)となる。人は、真如によって縁起を見るからである。

こころある人は、自らの心構えのありようを誤ってはならない。正しい省察によって、道の歩みを浄めかし。
(以上引用)


仏教を語る人々の中に、因果と因縁を同一視したり、混同している方がおられますから、注意する必要があります。

また、「自らの因縁によって」とは、「人と世の真実を知ろうと熱望する」ことです。


この記事へのコメント

toshi
2018年01月15日 07:36
 「因縁」(いんねん)という言葉は、世間一般では「あまり良い意味(内容)には使われていない」印象があります。・・・私は、SRKWブッダの教える「因縁」という言葉には、通常考える「否定的な意味合い」ではなく、「肯定的意味合いを持つ」ものとして受け止めています。・・・人と世の真実を知ろうと熱望するならば、「覚りの境地に至る因縁を間違いなく生じるであろう。」等と言う教えには、本当に勇気づけられ励まされます。