崇高なる境地

ワン爺n独り言(2018年1月19日)
「孤独の境地」に励むならば、<崇高なる境地>に至る。そして因縁によって「覚りの境地」に至るとSRKWブッダは言われます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana008.htm



(以下引用)

【崇高なる境地】

人は決して孤独ではない。しかしながら、こころある人が真実を知ろうとして「孤独の境地」に励むならば、かれはついには孤独を超えたその境地を究め尽くして<平等心>を完成するに至るであろう。

この孤独を超えた境地は、決して孤独な世界では無く、かと言って孤高に徹した境地でもない。それは、<崇高なる境地>と名づけられる境地であると知られるからである。

人がこの境地に至るならば、かれは一切世間を出離して何ものにも煩うことはなくなるであろう。なぜならば、かれにとってこの世はいたるところ<平等>であると認知されるからである。

この<崇高なる境地>は、(完成された)<覚りの境地>そのものでは無いが、こころある人はこの境地を我がものとし、さらに因縁を生じて解脱して、不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へと至れかし。そこに至ることは容易ではないが、それは誰にとっても決して遠いところにあるのではないからである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
私はどのようにコメントして良いかわからない時、SRKWブッダのTwlogを検索するようです。今回も「孤独」について検索して見ました。その中から次の言葉を引用します。

(以下引用)
孤独の境地に励むことは、言うほど簡単なことではない。そして、そのことがこの情欲を超えることを心の深部において阻害する動機となっている。衆生は、完全に孤独になってしまうのであるならば──それがニルヴァーナというものだと言うならば──そんなものは要らないと思いたがる。


衆生にとって、ニルヴァーナは、孤独になってまで得るほどの価値があるとは到底思えないからである。それで、衆生はすぐにお涙頂戴になる。しかしながら、それは人智であって、決して仏智に転じることはない。多くの衆生は、ここに迷っているのである。


しかしながら、それは誤解であり、浅薄な考えに過ぎない。実際にこの情欲を超えて孤独の境地に達したとき、そこには無上の楽しみが存在しているからである。これは人の究極であると知ることになる。そして、なぜ衆生が苦に喘いでいるのかをも知ることになる。

(以上引用)


この記事へのコメント

toshi
2018年01月19日 07:37
 この世界では、一人(孤独)になること自体が結構難しいです。家族があり職場があり友がいる・・・大体周りには誰か居て、それで「安心している部分」があります。・・・その環境の中で、孤独(一人)となり「崇高な境地」を目指す事はかなりの困難が伴いますが、その時に・・・「そこに至ることは容易ではないが、それは誰にとっても決して遠いところにあるのではない」という教えはとても救いになると思います。
ノブ
2018年01月19日 20:32
自身としましては、現代に生きるブッダを見つけてから十一年、ここで初心に帰ろうかと思っています。知った気になったことを洗い流して、自分を見直したいと思います。