明けの明星

ワン爺の独り言(2018年1月8日)
釈尊(ゴータマ・ブッダ)の覚りの瞬間の一般に知られている事柄について、SRKWブッダはその深い意味をこの理法で述べられておられるのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou331.htm



(以下引用)

【明けの明星】

仏教は、慈悲を説く。その一方で、正法そのものは犀の角のように世界ではじめて世に出現した智慧を見出さなければならないと説かれ る。抜け駆けせよと言うのでは無い。互いの功徳を邪魔すること無く、自分自身の功徳をしっかりと積むべきことが説かれるのである。そうであってこそ、世に 希有なる法の句(善知識)の出現に遭遇したとき、その本当の意味を理解し得るのである。そうして、解脱が起こる。

修行者は、世に初めて出現した智慧を誰よりも先に見出さなければならない。そのときにのみ、解脱が起こるからである。そこで、気をつけていよとか、功徳を充分に積めとか、衆生を完成させよ──衆生の完成と同時に仏(智慧)が出現するので──などと説かれる。

釈尊は、覚り(=解脱)に達したときのことを振り返って、「明けの明星を見てすべてが明らかになった」と述べたと言う。明けの明星は、東の空にゆっくりと 上る星では無く、突然飛び上がったように光り始める星である。それで、飛び上がり星(トビアガリボシ)とも称する。これは、要するに善知識(化身)が漆黒 の俗世にまるで突然に出現する様を表現しているのである。

実際、善知識(化身)=法の句(善知識)=智慧は、世間のどこに、いつ、どのように出現するのかを予見することは出来ない。ただ、〈一大事〉の局面におい てのみ出現するのである。これを見て智慧を体得した人は、空に太陽が昇ったように世を照らす。この意味において、善知識(化身)(=明けの明星)は、覚り (=夜明け)の先触れなのである。

ここに、一切の疑問と疑惑は消滅する。

(以上引用)



*ワン爺のコメント
釈尊(ゴータマ・ブッダ)の覚りの瞬間の状況を比較的わかりやすく、下記の本に書かれていますので、引用させていただきます。


『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯』(社会思想社 現代教養文庫 1997年)増谷文雄著 (4 菩提樹下のさとり)から
(以下引用)
そこに、そのように座したゴータマは、いまや、自信にみちた面もちであった。なるほど、彼は、苦行をやって失敗におわった。だが、苦行の不合理であることを観破しえたことは、彼にとっては、おおきな収穫であった。そのことが、かえって、彼に一種の自信をもたらしたようであった。道はちかきにあるにちがいない。こんどこそは、かならず課題を解決してみせる。解決にいたるまでは、断じてこの座をとくまい。その思いが、なにか自信ににたものとなって、その面もちにあふれていた。

考えてみると、ここまで来るには、いろいろなことがあった。七年前には、父のかなしみ、妻のなげきをあとにして、家をいでて沙門の生活にはいった。それも、つらいことではあったけれども、それによって、彼は、この世のしがらみから自由になることができた。出家してマガダ(摩掲陀)の国にきてからは、まず、いろいろの思想家を訪れて、その抱懐するところを問うてみた。だが、彼は、どこにいっても、わが心に満つるものを聞くことはできなかった。それは、悲しいことではあったけれども、そのことは、彼が、その時代の思想のながれから自由になりえたことを意味する。さらに、いまもいったように、彼は、それから、苦行によって道を打開しようとしたけれども、彼は、それによって、インド的実践の迷妄を克服することを得たのである。

束縛は断たれ、迷妄は克服され、もはや、彼の心の眼をおおうものはなにもなかった。そのことが、ふしぎな自信となって、彼は、いま、ここに座す。その樹下の座がどのくらいの期間にわたったものであるか。わたしどもは、それを知るべき資料をもたない。だが、あえていうなれば、その期間は、けっして、さほどながいものではなかったように思われる。そして、それからまもなく、まだ明けそめぬそらにあけの明星がきらめいた時、彼は、ついに、おおいなる決定的瞬間をむかえることができた。それを、のちの仏教者たちは、「正覚」とよび、あるいは「さとり」といい、もっと厳めしくは、「大覚成就」という。そして、その時このかた、沙門ゴータマは、いまやブッダ・ゴータマと称せられるこことなるのである。

では、その決定的瞬間は、いかにして実現したのであるか。また、その時、彼が把握したものは、どのような内容のものであったろうか。それらのことが、とうぜん、ここで問われなければならない。

だが、その決定的瞬間の消息については、わたしの筆は、まったく沈黙するよりほかはない。なんの説明をもさしはさむことができないからである。しかし、考えてみると、そのことについては、ブッダ・ゴータマじしんが、すでに、なにごとも語ることができなかったのではないかと思われる。その証拠には、その瞬間のことについては、ブッダはかく語ったとか、あるいは、わたしはこう聞いたとか、そのような記述は、ふるい経典のどこにも見出されない。それもその筈であるように思われる。なんとなれば、ながい間かかえていた問題に、ふとしたことで解決の手がかりを得ることがある。それも、湯につかっていて、ふっと閃くということもあるし、寝床のなかでうとうとしながら、はっと気がつくこともある。

では、どうして気がついたのか、閃いたのかというと、それは、自分でもわからないのである。自分のことはさておいても、たとえば、ニュートンが林檎の実のおちるのをみて、その瞬間に、かの万有引力の問題についての手がかりを得たという。その瞬間の消息については、ニュートンじしんも、やはり説明することができないであろうと思う。

いや、たった一つだけ、ふるい経のなかに、その瞬間の機微をといたと思われる韻文(偈)が見出される。それは、『ウダーナ』(自説経と訳する)と称せられる経の第一品の一の部分にあるもので、つぎのような韻文である。

まこと熱意を込めて思惟する聖者に
かの万法のあきらかとなれるとき
彼の疑惑はことごとく消えさった
縁起の法を知れるがゆえである

それは、ブッダ・ゴータマが、かの正覚を成就してのち、なお樹下にとどまり住して、その所得の内容をあれこれと思いととのえている間に、ふとうかんできた韻文であるという。だが、一読してわかるように、それは、ブッダじしんの胸中にうかんだものではなくて、のちの者がブッダの心中を推してこの韻文をなしたものにちがいあるまい。その用語があきらかにそのことを示している。とはいいながら、この韻文は、なお、はなはだ珍重すべきものであるとしなければならない。なんとなれば、そこには、ブッダの「さとり」えたものの思想的構造が、はなはだ明快に語りいだされているからである。とくに、「かの万法のあきらかなれるとき、彼の疑惑はことごとく消えさった」という部分は、ブッダの「さとり」の思想的性格をずばりと説きあかしているのである。
(以上引用)

この記事へのコメント

toshi
2018年01月08日 07:34
希有なる法の句(善知識)の出現に遭遇したとき、その本当の意味を理解しなければ「覚り=解脱」は起こり得ないと説かれています。・・・そこで、「互いの功徳を邪魔すること無く」、「自分自身の功徳をしっかりと積む」べきことが説かれているのですが、この「功徳を積む」という行為が中々難しいです。・・・自分は「しっかり功徳を積んでいる」と思っていても、まるで「ピント外れ」で功徳が十分に積まれていなければ、肝心の「飛び上がり星(トビアガリボシ)」」を見逃してしまいますね・・・。