徳行

ワン爺の独り言(2018年2月1日)
「ある人が善い行ないを為しても、もしもかれの心が何かに縛られていたり、けしかけられていたり、こだわっているとするならば、それではそれは徳行とは言えない。」とSRKWブッダは説かれます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana021.htm



(以下引用)

【徳行】

欲望あるいは欲求の対象物を目の前にして、我執(我ありという思い)と愛執(我がものという思い)とを離れた人は、少なくともそのことについて他の人を悲しませることがない。かれは、それについて貪ることなく、誠実であって、優劣・勝敗・順逆の念を離れ、自己を妄想せず、心を制し導き、言葉を慎み、行為を慎み、想いを慎んでいる。かれは、意地悪な人ではない。かれは、善悪(のこだわり)を超越し、それゆえに何を為しても後悔することがない。自ら憂いなく、他の人を憂いの淵に沈めることもない。かれは、柔和であり、決してものごとを荒々しく処理することがない。かれは、人を害する気持ちが無い。かれは、それゆえに温和な人と呼ばれ称される。

ある人が善い行ないを為しても、もしもかれの心が何かに縛られていたり、けしかけられていたり、こだわっているとするならば、それではそれは徳行とは言えない。しかし、ここなる人が、かれ自身それがいかなる行為であったのかを知らなかったとしても、それが何にも縛られることなく為され、けしかけられたものではなく、こだわりを離れて為されたものであるならば、それはまさしく徳行である。その善き行ないは、遠からず近からず、大いなる福徳と功徳とをかれにもたらすことになるであろう。

人が、徳行を為すことは容易ではない。しかしながら、よく徳行を為す人は、実に容易にそれを為し遂げる。けだし、人は何かを知って徳行を為すのではなく、(余計なことを)何も知らないゆえによく徳行を為し遂げるのであるからである。心構え正しき、いとも聡明なる人のありようはまさにこの通りなのである。

こころある人は、知るべきである。直ぐなる心(=無心)だけが、よく徳行を為すのであると。明知の人は、領解せよ。このことわりゆえに、それがたとえ如来が説いた教説であり、あるいはまたそれがよく真実を解き明かしたまぎれもない理法の言葉であるとしても、人はそれらを含めていかなる見聞きしたことにもこだわってはならない。自らよく吟味して、一切のこだわりを離れかし。不滅の安穏を求める人は、このように徳行を為さねばならない。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
どのような行いが徳行なのでしょうか? SRKWブッダの答えは次の通りです。「ここなる人が、かれ自身それがいかなる行為であったのかを知らなかったとしても、それが何にも縛られることなく為され、けしかけられたものではなく、こだわりを離れて為されたものであるならば、それはまさしく徳行である。」

ところで、最近ある方からメールを頂きました。そこには次のように書かれていました。「貴方が言われる“人の優しさ”とは、ちょっと違うかも知れませんが、病気に向き合ってからの、20年で“人の優しさ”を感じる毎日です。もし(夫が)病気にならなかったら、仕事をして楽しく好きな事をしながら、私達夫婦ふたり共、愉快に過ごす事が出来たでしょう! 本当の意味での、人の優しさ“、命の大切さを考え感じる事が出来、病気は、嫌な事ばかりではなく、家族や人の絆、命について考える事が出来、感謝しております。」このメールを書かれた方のご主人は難病ですでに亡くなわれたのですが、このように思えるようになったということは、彼女の徳行の結果ではないかと思います。

この記事へのコメント

toshi
2018年02月01日 07:35
 「仏道」を歩もうと考える修行者ならば、「徳行」により「功徳(くどく)」を積みたいと考えるのは当然のことです。・・・しかし、「人が徳行を為すことは容易ではない。」とあります。その理由は、「心が何かに縛られていたり、けしかけられていたり、こだわっている」からだと言います。・・・考えて見れば私たちの心は、いつも「そのように不安定な精神状態の中で生きて」おりますから、本日の感興句にあるように、「直ぐなる心(=無心)だけが、よく徳行を為す」を目指さなければいけないようです。