暗愚

ワン爺の独り言(2018年2月12日)
今回のSRKWブッダの感興句を読んで、私は暗愚(愚鈍)であるとは学識がないことだと思いました。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana032.htm



(以下引用)

【暗愚】



ことわりを解せず愚鈍であること、あるいは拙速ゆえに自ら過失を犯す者。かれらは、それだけで決して暗愚なのではない。なんとなれば、かれらがのちに学識によって愚鈍さを超え、聡明さによって行為の過失を知り明らめるに至ったならば、かれらはそれぞれに暗愚を離れ得るからである。

安穏の近くにあって安穏を知らず、安穏ならざるもの(=苦悩)に安住しながらしかも嬉々として世間を生きて、笑いながら(自らを滅ぼす)悪を為す者。かれこそ<暗愚>である。かれは、豊富な知識によっても、研ぎ澄まされた見識によっても、暗愚を離れることができない。かれは、他の何にもまして学識に欠けるところがあるからである。

真実のことわりをこころに知る明知の人は、決して遠いところにあるのではない安穏のよすがを、誰に頼ることなく自ら見いだして、知識によらず、見識によらず、その他いかなる何ものにもよらずして自ら暗愚を離れるに至る。かれは、ついに一切世間を出て円かなやすらぎへと入り、二度と戻っては来ない。

聡明な、こころある人は、学識ゆたかな人々とつきあい、以て自らの学識を増大せしめて暗愚を離れ、自らによって自らの明知を輝かせよ。明知によってもたらされる智慧こそが、人の心の闇を破る唯一無二の光明なのである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「知識がない」ということはよくわかりますが、それと違って「学識がない」ということの正しい意味はよく理解していませんから、SRKWブッダのTwilogで「学識」を検索して検討しました。

(以下引用)

解るということは楽しいことである。 しかし、解っているということはそれよりも大事なことである。考えるまでもなく自明で、健全で、安らぎに役立つ知識のよすがを、学識と呼ぶ。 学識ある人は、ついに解脱する。絵空事ではないその宝を、こころある人は我がものとせよ。

学問は体系的に修得しなければならないと周知されているであろう。しかし、覚りに向けての修行はそもそも体系的に修得するということができない。ただ学識豊かな人は自ら修行を重ねて学識をさらに豊かならしめ、功徳を積んで、一瞬に覚る。修行は因縁で始まり、因縁で終わる。

言葉だけ知っていること、頭だけで理解していることは、ニルヴァーナの役には立たない。莫大な財産を持っていても、使い方を知らないようなものである。素晴らしい薬を所持していても、処方箋が無いようなものである。学識豊かな人は、肝心なことを学ぶので、学識豊かだといわれる。

知識を蓄え、衆知を集めるだけでは、学識豊かであるとは言われない。学識が豊かであるとは、知るべきことを確かに知り、知るべきで無いことは知らないことでり、為すべきことをしっかりと為し遂げ、為すべきで無いことには手を染めないことである

仏教について書かれた万巻の書を読破すること100回、その三倍の回数読み込み、さらにその二倍の回数読んでも(つまり都合600回)、智慧に1mmたりとも近づくことはできない。その一方で、学識ある人は一瞬に智慧を理解する。仏道とはそのようなものなのである。

学識と言うのは、やさしさの本質を知っていることである。また、人の尊厳が分かっているということである。さらに、衆生の真実を知っているならば、遠からず解脱が起こるであろう。実に、人々は衆生であるゆえに苦悩しているからである。

知りたいことを知って、それによって静けさが増したならば、彼には学識があると認められる。学識は、まさしくこのようにして豊かになるからである。

ある人は知識を多く習得し、しかも学識豊かである。その一方で、何の知識も無いのに、学識豊かな人もある。この事実を見れば、学識が知識や見識とは無関係であることは明らかである。学識豊かな人は、真理を見てすぐに真理だと知る。しかしながら、学識に欠ける者は、示されて説明されても理解しない。

たとえば、扉を開けるには鍵が必要であると知るのは知識である。そして、金属の鍵を世界中に探しまわることになる。ところが、扉に注視して、鍵穴が無いことを見て、鍵は金属製とは限らないのではないか?と知るのが明知。さらに、「数字の羅列」が鍵であることに考え至るのが学識。

覚るには、解脱しなければならないと知るのが知識。そして、多くの者が修行法を探す。ところが、覚者の言葉に注視して、行為によって覚るのではないと正しく理解するのが明知。さらに、真実のやさしさを追求することが解脱の道であることを識るのが学識。

(以上引用)

興味ある言葉が多数ありましたので引用が長くなりました。


この記事へのコメント

toshi
2018年02月12日 07:37
 「安穏の近くにあって安穏を知らず、安穏ならざるもの(=苦悩)に安住しながらしかも嬉々として世間を生きて、笑いながら(自らを滅ぼす)悪を為す者。」・・・その様な、「明知による光明も無く、愚か極まりない人間」に、私はなりたくないと切に思います。
SRKWブッダ
2018年02月12日 08:39
~に、私はなりたくないと切に思います。:本当にそう思うならば、彼はそのなりたくない者に最終的にはなってしまうだろう。では、どうすればそのなりたくない者にならずに済むか?思いを超え、真実を覚知することによって人は究極の相(=ニルヴァーナ)へと近づく。ゆえに、修行者は思いを超えよ。***