くずおれた人生

ワン爺の独り言(2018年3月26日)
「こころある人は、自ら望んでくずおれた人生を歩んではならない。気をつけて世を遍歴し、くずおれることなく人生の究極の目的を達成せよ。」とSRWブッダは説かれます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana075.htm


(以下引用)

【くずおれた人生】



どんなに有意義で素晴らしい人生を歩んだと自負していても人が覚ることなく世を去ったならば、それは「くずおれた人生」であると言われる。有意義でもなく、素晴らしくもない人生だと感じている人のそれはなおさらである。

如来は、多くの人々のくずおれた人生を見る。しかしながら、もろもろの如来は人々のくずおれた様子を見て敢えてそれを立て直してあげようとはしないし、また為し得ない。もろもろの如来は、ただ道を説き、自らの境地を世に示すだけである。

しかし、時として人々のくずおれた人生に触れて今こそが一大事であると見る人が現れる。彼は善知識と呼ばれる人である。そして、善知識はくずおれた人に向かって世に稀有なるその言葉(=善知識)を発するのである。

人々が、くずおれた人生を送るのもそれを立て直すのも各自のことがらである。聡明な人は、耳を澄ませて善知識のことばを聞く人であれ。それによって人生を全うすることができるからである。他の人々のくずおれた人生を垣間見ては真実を知ろうと熱望せよ。それによって道は見い出されるからである。

こころある人は、自ら望んでくずおれた人生を歩んではならない。気をつけて世を遍歴し、くずおれることなく人生の究極の目的を達成せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「時として人々のくずおれた人生に触れて今こそが一大事であると見る人が現れる。彼は善知識と呼ばれる人である。そして、善知識はくずおれた人に向かって世に稀有なるその言葉(=善知識)を発するのである。」この言葉は、覚りの瞬間の構造のように思います。

正法「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう」というということは、一大事の因縁によって覚るということだと思いますから、つまり覚るためには、今こそが一大事だと知る必要があるのだと思います。

善知識はその時を知らせ、智慧の言葉を発してくれるのです。


この記事へのコメント

toshi
2018年03月26日 07:36
「どんなに有意義で素晴らしい人生を歩んだと自負していても人が覚ることなく世を去ったならば、それは「くずおれた人生」であると言われる。」・・・確かに、「その言葉」のとおりであると思います。・・・自分自身、「観(=止観)」の修行時そのことを少し「こころ」に問うてみたら、特段の動揺もなく「静けさが保たれた」ままでした。・・・「未来のこと」は分かりませんが、「自らのこころを信じて進む」ことに間違いはないのだと確信致しました・・・。