正しい見解によって

ワン爺の独り言(2018年3月3日)
「いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。」とSRKWブッダは説かれます。では正しい見解とは何か?
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana051.htm



(以下引用)

【正しい見解によって】



いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。かれ(彼女)は、たとえ百人の仏に出会ってその言葉を聞き、千・万人の菩薩と歩みを同じくしようとも、かれ(彼女)自身の行き着く先は思いもよらない処となる。

たとえ志が低く、知識が浅くとも、正しい見解をいだく人は、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至る。かれ(彼女)は、たった一人の菩薩に出会うことでその一なる道を歩む心を起こし(=発心し)、たった一つの仏の言葉(=法の句)を聞いて心が解脱して、究極の境地へと辿り着くからである。

愚かな者は、怖れるべきことを怖れず、恥じるべきことを恥じず、避けるべきことを避けず、遠ざけるべきものを遠ざけず、まるで好むかのように苦難に満ちた悪路を選択してしまう。その一方で、智者は怖れるべきことを怖れ、恥じるべきことを恥じ、避けるべきことを避け、遠ざけるべきものを遠ざけて、自らの歩みの道を浄めるのである。

世には、純一ならざるものだけが満ちあふれているのではない。智者は、世の雑多なものの中から純一なるものだけを選び取るのである。世は、すべてが迷妄に覆われているのではない。明知の人は、世に稀有に出現する真実のすがたを眼のあたりにして、妄執を超え、ついに目覚めるのである。

こころある、聡明な人は、よく気をつけて遍歴し、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。世間において聞き及んだ知識の多寡や優劣などへのこだわりを捨て、正しく混乱と迷いと憂いとを去って、ただ自らの正しい見解によって道を歩めかし。真実に純一なるものは、そのような人に適時に開顕されるものであるからである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
正しい見解を知識として学ぶことができると思ってしまいますが、それは違うのだろうと思います。

この感興句に「世には、純一ならざるものだけが満ちあふれているのではない。智者は、世の雑多なものの中から純一なるものだけを選び取るのである。」と述べられているように、正しい見解とは純一なものを選び取らせる想いだと思います。



この記事へのコメント

toshi
2018年03月03日 07:33
 誰もがよく知る仏教教義の中に、「八正道」(はっしょうどう)があります。その八正道の中で、一番最初に説かれている教えが、「正見」(しょうけん・正しい見解)です。この「正見」が一番最初に説かれているということは、それだけ「重要」だからなのだと受け止めております。・・・「正しい見解」が欠けていると、仏道修行も「迷いの中にある」と考えられます。・・・本日の感興句の最初に説かれる、「いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。」は、まさに「その事」を適切に表していると思います。
SRKWブッダ
2018年03月03日 09:30
正見は、いわゆる八正道の最初に説かれている教えでは無い。正見は、いわゆる八正道の中の一つの教えである。

物事に序列や順番を付けたがる者は、すでに段階の説に陥っており、そのままで覚る(=解脱する)ことは難しい。そのようなこと無く物事を平らかに見る人が、正しい見解を有する人なのである。

ところで、世に言われるいわゆる八正道は仏説とは言えない。覚り(=解脱)の本質を識らぬ者がこのようなものを主張し、特別なものだと吹聴するのである。

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