稀有なること

ワン爺の独り言(2018年3月31日)
「人が善知識の言葉を耳にして発心(あるいは解脱)することは難しい。」とSRKWブッダは説かれます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana080.htm



(以下引用)

【稀有なること】



人が善知識の言葉を耳にして発心することは難しい。そもそも善知識が善知識を発することが稀有なることであり、その誰に向かってという訳ではなく発せられたその善知識を耳にしてそれによって自ら省みて、そうしてそれが彼の道を正しく歩もうとする心構えに結びつくことはさらに稀であるからである。

人が善知識の言葉を耳にして解脱することは難しい。そもそも善知識が善知識を発することが稀有なることであり、その特定の誰かに向けて発せられたとはとても言えないこの善知識を耳にして、それによって正法の真実の真相をさとり、〈特殊な感動〉を生じて、まさしくさとり終わることはさらに稀であるからである。

(法身の)諸仏は、つねに世に出現しようとしている。しかしながら、諸仏は特定の言葉を持たない。それゆえに、諸仏は人の口を借りて世に出現するのである。諸仏は、そのときしかないそのときに世に出現し、最上の言葉を世に放つ。

けれども、人々(衆生)がこの諸仏の言葉を理解することは難しい。ただ、菩薩だけがこの諸仏の言葉を理解して解脱するのである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「人々(衆生)がこの諸仏の言葉を理解することは難しい。ただ、菩薩だけがこの諸仏の言葉を理解して解脱するのである。」とSRKWブッダは説かれておられますから、解脱を目指す人は菩薩になること先ずは目指したら良いと思います。誰もがブッダになれることを説く法華経は人々に菩薩になることをすすめています。


この記事へのコメント

toshi
2018年03月31日 07:35
 生き身のブッダ(SRKWブッダ)がこの世界に出現されたのはまことに稀有なることである。ブッダの説かれた法(ダルマ)を見聞して「「覚り=解脱」(ニルヴァーナ)」の修行を行うことが出来るのは稀有にしてまことに幸運なることである。・・・修行者は、「自らと、自らの(その心)」を信じて歩みをすすめよ。・・・「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。」(『ダンマパダ』第3章43)

ノブ
2018年03月31日 22:26
コメントその1

対機と言うものが説かれる時がある。
理法は対機に説かれる。そして法の句もまた、おそらく対機に発せられる。誰に向かってというわけではなく、とか、特定の誰かに向かって発せられたとはとても言えない、とか語られているのは、法の句が対機であるという事を示唆していると思われる。
対機のものは誰も傷つけない。しかし、対機のものを自らのものとして聞くならば、つまりそれによって自ら省みるならば、それは孤独の境地に励んでいることになるだろう。

ブッダの言葉を聞いて、がっくりしたり腹を立てるのはお門違いという事なのだろう。ブッダは事を対機に説くからである。つまりブッダに対峙し何か言葉を投げかけるとき、「私」はそこにいないも同然なのである。ブッダは遍く衆生に語り掛けるものであり、遍く衆生の声を聴くものだからである。つまり「私」の言葉も、遍く衆生の言葉として聞いているはずである。ブッダとのやり取りに、或いはかつて為されたブッダと人々のやり取りに私情を持ち込めば腹の立つ事もあるだろう、涙することもあるかもしれない、しかしどちらも、ブッダの言葉を正しく聞いてはいないのである。
ノブ
2018年03月31日 22:27
コメントその2

ブッダが事を対機に運ぶように、おそらく修行者も事を対機に運ばねばならないだろう。ブッダに対しては対機に為し、同じように人々に対しても対機に為さねばならないのではないか。対機に為すという事は等しく(比べるという意味ではなく)為すという事である。そこに差別は入らないが、このことは容易ではない。人は近しい者に対しては近しいものに相応しいように為し、そうでない者に対してはそうでない者に相応しいように為すからである。もし修行者が誰に対しても等しいふるまいを為すならば、それはまこと修行者に相応しい態度ではあるのであろうが、ほぼ人間には不可能のように思える。
だが、ここで難しいからこそ答えも生まれ得るであろうと思えるのは、無相の衣装を纏わねばならぬと言われている事にある。そこに黒い鏡に徹することも出てくる。つまりまるっきり日常でいて、しかも彼は普遍の日常者、観を為す者でなければならない。