懺悔

ワン爺の独り言(2018年3月8日)
「もし人が、正しい省察を為し、為し遂げて、『少なくともそのことについては決して人を悲しませないようにするのだ』と決心するならば、それを〈懺悔〉と呼ぶ。」とSRKWブッダは説かれます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana056.htm



(以下引用)

【懺悔】



もろもろの如来、世尊、道の人、善知識は、人を悲しませることがない。しかし、人々は(そうとは知らずに)互いに傷つけあっては、人を悲しませるのである。

もし人が、正しい省察を為し、為し遂げて、「少なくともそのことについては決して人を悲しませないようにするのだ」と決心するならば、それを〈懺悔〉と呼ぶ。懺とはそのような行為を死ぬまで犯さぬと誓うことであり、悔とはこれまでの過ちを知って戒めの礎とすることである。

人々は、自ら勝れていると見なし考えるところのものによって、(そうとは知らずに)人を悲しませる。しかしながら、真実にすぐれた人は、悪しき想いと根底の束縛とを離れ捨て去って、諸の迷妄に陥ることなく、さらに妄執をも超えるのである。

たといたった一つのことがらであっても、そしてそれがどんなに小さなことがらであっても、懺悔し終わった人はすでにこの一なる道を歩む〈道の人〉であると認められる。かれ(彼女)は、あり得べき観の正しい取り組みの中にあり、あるいはすでに観(=止観)の完成者であるからである。



こころある人は、省察によって観(=止観)を完成し、世の妄執を超えて解脱を生じ、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
SRKWブッダのTwilogから「懺悔」について言葉を検索してみました。以下その中のいくつかを引用します。

(以下引用)
省察することによって、心を矯めることができ得る。ただし、省察は懺悔(さんげ)には結びつかない。懺悔(さんげ)は、観(=止観)においてのみ起こることである。ゆえに、もろもろの如来は、観(=止観)を勧めるのである。

省察は、いわば過去を振り返ることである。懺悔(さんげ)は、自分の未来についてどうするか!ということである。正しい決心を起こしたとき、因縁があれば(次いで)解脱が起こる。

懺悔(さんげ)の根底にあるものは、自分は間違っているのではないか?と言うことではない。懺悔の根底にあるのは、自分は恥ずかしいことをしているのではないか?と言うことである。省察し、心に問うて、その真実を明からめたとき、解脱の機縁を生じる。
(以上引用)



この記事へのコメント

toshi
2018年03月08日 07:33
 本日の感興句では、人々は「互いに傷つけあっては、人を悲しませる」存在であると説かれております。・・・「もし人が、正しい省察を為し、為し遂げて、「少なくともそのことについては決して人を悲しませないようにするのだ」と決心するならば、それを〈懺悔〉と呼ぶ。」・・・「懺悔」し終えた人は「道の人」となり、同時にふさわしい「戒」が備わるものと受け止めました。・・・「もろもろの如来、世尊、道の人、善知識は、人を悲しませることがない。」