聖求とは何か

ワン爺の独り言(2018年4月15日)
「万巻の書を読破し千巻の書を著しても、求めるものが違っていては究極に至ることはできない。その一方で、経典の一行を受持し、たった一言の善知識を耳にしただけでも、求めるものが正しい人はニルヴァーナに到達する。」とSRKWブッダは説かれます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana095.htm



(以下引用)

【聖求とは何か】



仏教にふれたある人々は思ったに違いない。



「ニルヴァーナはそれほどまでして求めるべき価値のあるものなのだろうか...?」



しかし、この問いによっては究極には至れない。これは聖求とはならないものである。学識ある人はそうではない正しい問いを見い出し、その正しい問いの答えとしてついに智慧を得るのである。その根底にあるものが聖求である。

万巻の書を読破し千巻の書を著しても、求めるものが違っていては究極に至ることはできない。その一方で、経典の一行を受持し、たった一言の善知識を耳にしただけでも、求めるものが正しい人はニルヴァーナに到達する。聖求の人の覚りは一瞬のできごとである。そして目覚めた人は衆生に逆戻りすることがない。



世人は欲しいものが手に入らないと言って嘆く。すでに道を見いだした筈の修行僧でさえもそのように口走る者がある。しかし欲しいものが分かっているということそれ自体が迷妄の所産である。



聖求は求めを超えた求めである。それは、生まれた後に求めたものではなく、生まれる前から求めているものでもない。

人は覚るために生まれてくるのではない。しかし生まれた人の中には自ら聖求を起こし、聖求を(こころに)覚知して、ついに解脱する人がある。覚った人は皆そうである。それゆえに安らぎを求める人は自らのこころに問うて道を求めよ。真実を知ろうと熱望せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「世人は欲しいものが手に入らないと言って嘆く。すでに道を見いだした筈の修行僧でさえもそのように口走る者がある。しかし欲しいものが分かっているということそれ自体が迷妄の所産である。」・・・・・このようには考えたことがなかった。しかし、それが自分の本当に欲しいものかどうかわからないと言うことが本当のところだと思います。それが、証拠に自分と欲しいと思うものがしばらくすると変わるからです。そこで次の言葉が出てくるのだと思います。(自分の本当に欲しいもの)「聖求は求めを超えた求めである。それは、生まれた後に求めたものではなく、生まれる前から求めているものでもない。」




この記事へのコメント

クリームコロッケ
2018年04月15日 08:50
座敷で横臥し目を瞑り、考えている。仏の立場に立つと決心することが最高の幸せになろう決心することと同義なのだと。本当にそうだと実感。すると、上から色とりどりの無量の数字が雨霰と降って来た。身体がジーンと痺れて熱くなる。しばらくすると庭で物音がする。庭に目をやる。女子高生が自転車を押して歩いている。誰だろう?と考えたところで目が覚めました。