堂々巡りに陥らない人

ワン爺の独り言(2018年4月2日)
「知恵の輪に取り組んだ人が最後まで諦めずに熱心に取り組めばこそ知恵の輪は解けたのである。同様に、覚りも最後まで諦めずに取り組んでこそ解脱は起きるのである。それゆえに、こころある人は真実を知ろうと熱望せよ。」とSRKWブッダはのたまう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/udana082.htm



(以下引用)

【堂々巡りに陥らない人】



熱心に知恵の輪に取り組む人は、まるで堂々巡りをしているようでいても最後には知恵の輪を解く。

真実を知ろうと熱望する人は、まるで堂々巡りをしているようでいてもついには真理に辿り着く。



他ならぬ自分自身を信じ、道を求めるならば、人はついには覚りへと至る。それがまさしくそのようであることそれ自体が法(ダルマ)である。それゆえに、こころある人は堂々巡りのただ中にあっても決して自分自身を見失ってはならない。

知恵の輪に取り組んでいて堂々巡りに陥った人は、悲観して思うであろう。



『これまでにやったことはまるで無駄だった。これは正解ではないという誤った手順は山ほど分かったが、それらは正解手順に辿り着くための知見としては何の参考にもならないものだ。私はまだほんのわずかさえも知恵の輪を解いてはいないのだ。』



しかし、実際にはその一見して無駄な努力は最後の最後になって報われることになる。それは、かれ自身予想もしない形で結実する。何となれば、そのような正しい努力があればこそ知恵の輪を解いたときに確かな感動を味わうことができると言えるからである。



それと同じく、真実を知ろうと熱望する人にもまるで堂々巡りに陥った気がして悲観する者がある。 しかし、それは本来悲観するにはあたらないことがらなのである。何となれば、そのまるで無駄に思える真理の探究があればこそ観(=止観)を完成したときに覚りの大歓喜たる〈特殊な感動〉を味わうことができると考えられるからである。そして、この〈特殊な感動〉を味わうことがなければ解脱することはあり得ないと言えるのである。



もちろん、知恵の輪に取り組んだ人が最後まで諦めずに熱心に取り組めばこそ知恵の輪は解けたのである。同様に、覚りも最後まで諦めずに取り組んでこそ解脱は起きるのである。それゆえに、こころある人は真実を知ろうと熱望せよ。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
「実際にはその一見して無駄な努力は最後の最後になって報われることになる。」と述べられています。しかし、これは「報われる」ためにだけに一見して無駄な努力をすることを意味していません。結果はどうでも良いというわけではありませんが、「一見して無駄な努力」もけして楽しくないわけではないのです。少なくとも私はそのように感じています。そうでなければ、とっくに「一見して無駄な努力」はやめていたでしょう。

つまり、「知恵の輪に取り組んでいて堂々巡りに陥った人は、悲観して思うであろう。」けれでも、知恵の輪を焦らずに取り組んでいれば、その過程も結構面白いということです。


この記事へのコメント

ノブ
2018年04月03日 03:39
真実を求める生き方が楽しいかどうかは人によるところがあると思う。
釈尊は真実を求めていたが苦行までする事となった。後にそれは無益であると述懐してはいるが、苦行していた当時、釈尊が真理の探究者では無かったとは言えないだろう。

一方で、賢者は世間を楽しみと共に渡ると言われる。しかし賢者が楽しみと共に世間を渡れるのは真理を探究しているからではなく、道理をわきまえているからではないだろうか。そして道理をわきまえている事自体は何ら楽しい事でも何もない。

だが、修行が楽しくないなら続かないかも知れない。自分の本意に従えるなら、それは楽しい事であると思う。修行が本意ではなく真実知見を得る事が本意ならば、目的と経緯を混同する事なく、そこに向かっているという事自体、楽しみのある事だと思える。
SRKWブッダ
2018年04月03日 08:51
~そこに向かっているという事自体、楽しみのある事だと思える: このように言う者が覚る(=解脱する)ことは恐らくついに無い。これは愚者の弁であって、賢者はこのようなことは言わないからである。***
ノブ
2018年04月03日 23:19
人というものが愚者と賢者にくっきり分かれるものだろうか。
「そこに向かっているということ自体、楽しみのあることだと思える。」
これは知恵の輪の喩えには適さないが、道を歩むことについては適しているように思われる。
道の終わりに楽しみがある。道の途中には何もない。
道の終わりに楽しみがある。道の途中もまた楽しい。
安らぎに近づいていくという事は後者のような気が私にはしている。