ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ)第3章 愛執 第16偈

16 たとえ樹を伐っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹がつねに再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜在力を摘出しないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
(ダンマパダ338参照)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
はじめに、皆様にお知らせします。昨日の第15偈について、SRKWブッダが次のようなコメントをしてくださいました。是非お読み下さい。
◆コメント
《ニックネーム》
SRKWブッダ
《内容》
食料についての説明は、原始仏典=スッタニパータの次の箇所が参考になるでしょう。(以下引用、一部追記)

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。 どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起こるのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。 このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。 そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

747 およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。 諸々の食料〈についての飢渇〉が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。〈けだし、飢えは最大の病いであるからである。〉

748 「苦しみは食料の縁から起こる」と、この禍いを知って、一切の食料〈についての満足と不満足が生じる要因〉を熟知して、一切の食料にたよらない〈旨い不味いや特定の食料種にこだわらない〉。

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起こることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

747,748:〈〉内の文章は、SRKWブッダが追記。
(以上引用)

さて、本日の第16偈では、樹木の幹に当たる部分を妄執(渇愛)、その根に当たる部分を潜在力と表現されています。

妄執(渇愛)の根源となる潜在力とは、どんなものでしょうか?
私は名称(ナーマ)と形態(ルーパ)だと思います。
名称(ナーマ)と形態(ルーパ)が樹木の根に当たるのです。

(ナーマ)と形態(ルーパ)については、少し難しいですが、SRKWブッダの次のアドレスの理法を
参照して下さい。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou006.htm



参考:ダンマパダ338
たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜在力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。


この記事へのコメント

てくてく
2018年07月29日 07:07
おはようございます。
てくてくと申します。
書き込み失礼いたします。

自分は、このことばを思いました。

『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫より

856
依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857
諸々の欲望を顧慮することのない人、かれこそ<平安なる者>である、とわたくしは説く。かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

(以上、引用を終わります。)
toshi
2018年07月29日 17:04
 原始仏典においては、「輪廻(りんね・果てしなき苦の生存の繰り返し)」の根本原因を、「妄執(もうじゅう・もうしゅう)」(迷いによる執着・成仏をさまたげる執着心)・漢訳では「渇愛(かつあい)」(のどが渇いて水を求めるような貪りの心・渇きにたとえられる妄執)として説かれています。・・・「740 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと長い間流転して、輪廻を超えることができない。」、「741 妄執は苦しみの起こる原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執着することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。」(以上、『ブッダのことば(スッタニパータ)』「第3章 二種の観察」より引用)