ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第12章 道 7偈

7 「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
この偈では、「空」とは何か理解することは必要です。

参考のために、ダンマパダとスッタニパータの「空」に関する偈を一つずつ引用します。

ダンマパダ92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱(げだつ)の境地は空(くう)にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。___空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

スッタニパータ1119 (ブッダが答えた)、「つねに気をつけて、自我に固執する見解をうち
破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。

SRKWブッダは「空」について、理法「空性」において解説されていまので、その出だしを引用します。詳しくは次のアドレスの全部をお読みください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou033.htm

(以下引用)
空は、最初から何も無いということではなく、あった(と思っていた)ものが無くなることを意味する言葉である。空によって何が無くなるかと言えば、煩い が無くなるのである。すなわち、いくつかの空の境地に順次住すること(空住)によってより微細な煩いが順次に滅して行き、見かけ上覚りの境地に近づいた 境地(境界)を垣間見ることができるのである。

しかしながら、それぞれの空住およびその行き着くところは、いずれも本当の覚りの境地ではない。した がって、覚りの境地を目指す人は、このような順次住する空の境地を極めていくことによっては、本当の覚りの境地に到達することはないということを先ず知ら なければならないのである。空に住するプロセスと覚りの境地に至るプロセスとはまったく別のものである。これらには、見かけはともかく、本質的ないか なる共通点も見いだすことはできない。

例えば病気に対して処方する対症療法と根治療法ほどの違いがあるのである。つまり、空に住することはいわば対症 療法に他ならず、それはそのときだけの一時的なものに過ぎず、抜本的に苦を滅する道ではないからである。一方、覚りの境地に至る道は、いわば根治療法に 相当するものであり、それは滅することもなく、転じることもない不滅の安穏なのである。したがって、覚りの境地に至ることを目指す人がこのことを理解せ ず、あるいはまったく知らずに空住にあこがれ、空住に依拠した生活を送るならば、かれはそれゆえに覚りの境地から遠く離れ、ついに覚ることはないのであ る。対症療法に明け暮れて、根治治療を怠る病人のようなものである。

それでも、空に住する境地(空住)に興味が者のために、以下では空および空住の真 実について敢えて記すことにする。
(以上引用)



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