ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第12章 道 8偈

8 「一切の物事は我(われ)ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(ダンマパダ279 「一切の物事は我(われ)ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
この偈の訳者の中村元氏は、無我を非我と訳されます。無我と非我の関係については、以下に引用しますSRKWブッダの理法「無我」において説明されています。

私は過去に無我について、次のアドレスのブログ記事で解説しました。
https://76263383.at.webry.info/201005/article_20.html

しかし、今読み返してみると基本的に間違っていたと言わざるを得ません。読者の皆さんは是非、下記の理法「無我」をお読みになって、無我に関する正しい見解を学ばれることをお奨めします。



SRKWブッダの理法「無我」
http://srkw-buddha.main.jp/rihou034.htm

(以下引用)

【無我】



無我という言葉が用いられるとき、その意味するところは「我というものは無い」ということである。ただし、無我という言葉は「それは我では無い」という 意味で用いられる局面があり、その場合には非我と呼びならわす。本質的な観点からは、無我と非我は同じことの二つの側面に他ならない。以下では、無我 に統一する。

さて、覚りの境地を目指す人が、無我に関して予め理解すべきことは、無我ということを予め知っていようが知らないでいようが覚りの境地はその人に確かに顕 現するということである。つまり、無我を理解しているゆえに覚りの境地に到達し易いということはなく、無我を知らないゆえに覚りの境地に到達し難いとい うこともなく、逆もまたしかりである。すなわち、覚りの境地に至るということ(いわばプロセス)に関しては、無我(あるいは非我)の理解はまったく不用 なことであるからである。実際、人は無我ということについて何ら知らずとも、何ら考えなくとも覚りの境地に至る。しかしながら、覚りの境地に至ったそ の後では、無我(および非我)の何たるかを知ることになる。



しかしながら、すでに無我という言葉が知られている以上、その意味や意義について人々が予め知りたいと思うのは無理からぬことである。そこで、以下では無我について若干の説明を加えることにする。

自分自身についての無我は、覚りの境地に至る前に意識されることは一切ない。かと言って、無我は覚りの境地に至るその瞬間に意識されるものでもない。無我は、覚りの境地に至った後で自らがそのようになったことを後づけで知るということであるからである。すなわち、無我の真実とは、覚りの境地に至った ときそれまで自分だと思い込んでいたもの(我:エゴ)がすっかり無くなっていることに後付けで気づくということなのである。やや詳しく説明すれば、覚り の境地に至ることによって無我になったのではなく、覚る前は我(エゴ)が確かに存在していたということを知ることになるのである。たとえば、大人になっ たとき、かつて自分自身には子供心というべき未熟な心が確かに存在していたことを後づけで認知するようなものである。



俗に「無我の境地」などと言うが、無我の境地という境地は存在しない。それは、例えば、大人が自分の心のありようを自ら指して大人の境地などとは言わな いことと同様である。大人は自分が大人であると確かに知るのであって、大人の境地などというものではないことを自ら知っているからである。あるいは、 大人は自分がもう子供ではないことを如実に知っているのであって、子供で無くなった境地があるとは誰も言わないのはそのためである。同様に、無我は、覚 りの境地に至った後で自らのことを無我であると知るのであり、無我の境地などという言葉で指し示すような特定の境地がある訳ではない。

覚りの境地に至って無我となったとき、自分が無我だと知る存在とは何であろうか? それは、無我になった自分自身に他ならない。人は、無我によって自ら 無我であると知るのである。それは、子供が大人になったとき、子供では無くなったと知るのは子供では無くなった自分自身、すなわち大人になった自分自身 であることと同様である。仏になった自分自身が無我になった自分自身を知り、そのように知る自分自身になったことがすなわち仏になったことの証なのであ る。

人々(衆生)の恐怖心を一掃するために敢えて付け加えるならば、無我はこころが死ぬことでは決して無い。無我は、この名称と形態(nama-rupa) の滅尽によって顕れるこころの真実の状態である。それは、通常の人間の心理状態とはまったく違うものではあるが、こころの死では無い。無我は、精神活 動が停止した状態ではなく、むしろ自由闊達なる精神状態であると実感されるからである。それは、あらゆる表層的な妄想分別が無くなった精神状態である が、深奥において理法にかなったこころの確かな活動が認められる。それは、一切後悔しない行為のみを為す自分がいるということで分かり、それをそのよう に為し遂げる理法にかなったこころの活動の明かしが認知されるからである。

なお、無我なる覚者を覚者たらしめているのは法(ダルマ)であるが、法(ダルマ)自体も無我である。それゆえに、覚りにおいて人の身に顕現する無我は、表層においても、深層においても完全に無我であると言わねばならない。よって、無我は<無我>と名づけられる。

最初に述べたように、覚りの境地に至るということ(プロセス)に関しては無我(あるいは非我)は見かけ上まったく無関係であり、正しい道にしたがって精励 する人は、無我ということを知らなくとも覚りの境地に至ることは間違いないことである。それは、たとえば子供が、大人の世界について何某か知っていよう が知らないでいようがそのこととは無関係に大人になることに似ている。子供がまさしく大人になったとき、大人の世界が何であるかは他の人に聞くまでもな く自ら理解するところのものとなる。また、子供が大人の世界の真実について事前に知ることは元々出来ないことであり、仮に何某かのことを知っていたから といって、それによって早く大人になるわけではなく、それによって立派な大人になると断言することもできないことである。恣意的な言い方を敢えて怖れず にするならば、むしろ、ませた子供よりも、余計なことは知らずにすくすくと育った子供の方が、多くの場合結局は立派な大人になるのであると信じられるであ ろう。覚りに至ることを目指す人が無我について予め知ることの可否も、それと同様なのである。



こころある人は、無我(という言葉)にとらわれて足踏みすることなく、正しい道にしたがってひたすら歩み行き、人としての究極たるその目的を為し遂げるべきである。そのようにするならば、遅かれ早かれ、無我(および非我)の真実は自ら知ることになるからである。

(以上引用)





この記事へのコメント