ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第12章 道 19偈

19 明らかな知慧を武器とし、瞑想による力をそなえ、心が統一し、瞑想を楽しみ、気をつけている人は、世の中の興亡盛衰をさとって、智を具現した人として、あらゆることがらから解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
この偈の肝も「気をつけている人」であると、SRKWブッダは指摘されました。そこで、SRKWブッダの「よく気をつけている人」に関する言葉を検索しました。その幾つかを引用します。

(以下引用)

覚るためには研ぎ澄まされた心が必要だ...などと嘯く者があるが、それは真実ではない。 覚るには気をつけていることが必要なだけである。 もちろん、どのように気をつければよいのか?などと聞くようでは話にならない。 よく気をつけている人は、そのようなことは考えないものである。

遠い先の覚りを願い、今この瞬間を大事にしないならば、とても機縁を生じることはないであろう。 よく気をつけている人がこの瞬間を疎かにせず、眼を開いて、ついに目覚めるのである。 これらは同時に行われ、為し遂げられる。 一瞬のことが無限の時間にわたる覚りを達成せしめるのである。

毎日続けることが修行なのではない。 よく気をつけていることが修行である。覚りの機縁はまるで突然に現れる。現れたときに、それがそうだと分からないほどである。しかし、後で振り返って、あれこそが覚りの機縁だったと知るのである。

覚りの機縁・因縁は漫然と待っているだけでは現れない。かと言って、恣意的に呼び起こすこともできない。心を静め、よく気をつけている人に覚りの機縁が生じ、因縁が現れる。その時修行者は思うであろう。『これかな...』と。

些細なことがらを蔑ろにする者は、些細なことがらによって躓き、最悪の場合には身を滅ぼす。些細なことがらを軽んじることがなく、かと言って大仰に構えることもなく、よく気をつけている人は、大事を得て、ついに究極の境地に到達する。そこに至れば、憂いがない。苦悩がない。

目の前の雑事に追われているようでは、修行はおぼつかない。かと言って、目の前のことがらをないがしろにするのでは、とても覚りの機縁を生じることはない。修行者は、目の前のことがらに注視して、よく気をつけて日々を過ごせ。それが結果的に修行となるのである。

よく気をつけている人が、ついに覚る。彼は、まさかのところに出現する善知識(化身)を見逃さないからである。愚鈍なる者は、善知識(化身)どころか、目の前に如来がいてもそれと気づくことが出来ない。ある者は「自分は気をつけている」と口にするが、実際に気をつけている人は極めて少ない。

いわゆる気をつけることが気をつけていることでは無い。気をつけるということが無いことが、実は気をつけているということなのである。実に、立派な修行者はよく気をつけているからである。このような言い方を聞いてピンと来る人は、金剛般若経の真意を理解できるであろう。
(以上引用)


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