感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第16章 さまざまなこと 18偈

18 田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは迷妄である。それ故に、迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報をもたらす。

(ダンマパダ358 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「迷妄を離れた人々」とは、正しく認識できる人々です。「この人々」とは正しく認識できない人々です。名称作用と形態作用が消滅している人々は正しく認識することができます。名称作用と形態作用が消滅してない人々は正しく認識できないのです。

名称作用とは、心の余韻作用です。例えば鐘を叩けば音が出ますが、その音はすぐ止むことなくしばらく、続きます。そのように、心に作用した刺激の反応はしばらく続くのです。

形態作用とは、心の変換・増幅作用です。ある情報を危険か安全か、敵か味方か、好きか嫌いか判断し、強調し、増幅する作用です。しかし、その根拠は明確ではなく、特定できないのです。

心にこれらの作用があることを知らず、これらの作用のために苦しむことを迷妄というのです。迷妄から離れた人々を供養すれば、迷妄から離れる縁ができるのです。そのために、「迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報をもたらす。」というのです。






この記事へのコメント

チュッラパンタカ
2019年03月12日 10:13
法津(のりつ)如来のおっさんよ。

遂に答え出したね

身を以て
てくてく
2019年03月12日 14:42
書き込み失礼致します。

自分は、『大いなる果報をもたらす』と説かれましたことばは、供養して与えようとするときのその人々のこころのことを説かれたように思いました。迷妄を離れた人々は、その時のそのこころをそのこころのままに受け取ってくれるはずと想像してみます。
 だから、例えば、葉っぱ一枚でも迷妄を離れた人々を供養し与えることが出来るように、と思いました。なぜなら、供養も、与えることができるものも、与えられるものも、その時のこころだと想像するからです。
  (てくてく拝)
Satya
2019年03月12日 18:35
名称作用は、その名のとうり名称にこだわることだと理解しています。
【例えば】、職業や地位の名称にこだわる方は、欲が強いように見えます。

形態作用も、その名のとおり形態にこだわることだと理解しています。
【例えば】、刀のような形のものを持った人を見たとき、恐怖する方と、怖がらない方がいます。
また、【例えば】美形の人を見たとき、愛着する方と、愛着しない方がいます。


シンプルですが、こういった例から迷妄や妄執から離れているか、離れていないかが、おおよそ判るように思います。