感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第16章 さまざまなこと 21偈

21 田畑の汚れは雑草であり、この人々の汚れは愛執である。それ故に、愛執を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報をもたらす。
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈のテーマは「愛執」です。愛執は我がものという思いです。いつ頃、愛執はどのようにして現れるのでしょうか? 少し考えてみましょう。

本来、我がものというものがあるのでしょうか?

そもそも、我と思っているこの我は、母の卵子と父の精子が合体してできました。はじめから我がものではないのです。生まれてからは、母の乳を飲み育ってきました。成長する過程で得た知識も全て、外から学んだものです。我のものではありません。自分が働いて得たものは自分のものは自分のものだと言っても、すべて自然や社会から得たものであり、元は自分のものではありません。

しかし、いつの間にか我という思いが現れ、我がものという思いが現れます。本来我がものはないのに、現れた我がものという思いは虚構なのです。

話は飛びますが、世の中には相続争いというものがあります。親の財産は、親の財産であり、自分のものではないのです。しかし、自分のものであると思うから起こるのです。もし親の財産を少しでも分けてもらえるならば有難いと思うならば、相続争いは起こりません。同じように、全て我がものでないのに、我がものであると思うことから、悩み苦しみが起こるのです。

この真実を知った人には、争いがなく、悩み苦しみがありません。そのような人の存在は人々にその事実を知らせる因縁になります。

それ故に、愛執を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報をもたらすのです。




この記事へのコメント