感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 17偈、18偈

17 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

18 この身は泡沫(うたたか)のようなものと知り、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。 


(ダンマパダ40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。勝ち得たものを守れ。____しかもそれに執着することなく。)

(ダンマパダ46 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
17偈と18偈の違いは、身体の比喩を前者は「水瓶」を使い、後者は「泡沫」を使っていますが、両者とも「この身体は・・・・・、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものである」と言っていますから、両者の趣旨は同じです。

この身体ははかない本性のものとは、寿命は長くても120年、平均は80年くらい、その間に病気や事故天災などに遭えば、短くて、死ぬことになるということです。それならば、身体に執著するなということです。

ここで「この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。」という文章が続きます。

「悪魔の花の矢」とは、身体の楽しみ、すなわち感覚の楽しみです。なぜこのように言うのでしょうか? 悪魔は輪廻の世界の支配者です。悪魔は生命を輪廻の世界に結びつけるために、感覚の楽しみを使っているのです。美しいものを見たいのでこの世で生きていたい。美しい音を聞きたいのでこの世で生きていたい。美味しいものを味わいたいのでこの世で生きていたいというようにして、生命を輪廻の世界に結びつけているのです。

「死王」とは、悪魔のことです。感覚の楽しみを断ち切ると、「死王に見られないところ」すなわち輪廻から抜け出てたニルヴァーナ(涅槃)の世界に行くのです。

感覚の楽しみに断ち切るとは、感覚の楽しみに執著しないということです。感覚の楽しみに執著しなければ、それに支配されません。それが、断ち切るということです。

この偈で大切なことは、感覚の楽しみに執著しないことです。注意すべきは、この身体を軽視せよということではありません。この感覚があるから、快・不快がわかり、苦の本体がわかるのです。苦を縁として、解脱するのですから、身体や感覚は軽視できないのです。





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