感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 1偈

1 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに執著せず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 

(221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「怒りを捨てよ。」これは幸せになりたい人の必須条件です。怒っている人は自分は幸せとは感じていないのです。また、怒りを向けられた人も幸せを感じません。さらに周りの人々も不愉快な思いにさせます。怒りは自分も相手も周りの人も不幸するものですから止めたほうがよいのです。

しかし、怒りをやめることはなかなか難しいのです。そのためにこの偈では、次に「慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。」という言葉が続き、怒りを止める方法が述べられているのです。

さらに、怒りが起こる根本を「名称と形態へ執着」として、名称と形態とに執著しないことを提唱しています。
「名称と形態」について、SRKWブッダは理法「名称と形態(nama-rupa:名色)」で述べておられます。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou006.htm

しかし、ここでは「名称と形態」について、SRKWブッダと少し異なる説明をします。
名称は物の名前です。形態は物の形や色や香りや味などです。

子供は、「あれ何?」とよく聞きます。
子供は、物の形や色などは分かっています。それを形態と言います。
名前を教えてとは思ってませんが、大人は名前を教えます。それは名称といいます。

子供が幼い時、星をさして「あれ何?」と聞きました。
多分、私は「星」だと答えたのだと思います。
しかし、子供は星を小鳥が夜になると帰る家だと思っていたのでした。
そのことはずっと後になってわかりました。

何を言いたいかと言えば、名称と形態がわかっても、本質はわかっていないのです。
しかし、人々は名称と形態がわかると、わかった気になって、しかもそれに固執するのです。
名称に固執することをやめると、人と対立することが少なくなります。形態に固執することをやめると、人との対立がなくなります。人と対立することがなければ、怒りが現れません。

「無一物となった者」とは、精神的な意味です。名称にも形態にも固執することがなくなった者です。そのような者は、もちろん苦悩に追われることがありません。




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