感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 17偈

17 心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか? はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

欲望と怒りは、快と不快によって起こります。快があるとき欲望が起こり、不快があるとき怒りが起こるのです。快と不快は、感官による接触にもとづいて起こります。このとき識別作用があると快と不快が現れるのです。識別作用の滅した人は、快と不快が現れませんから、欲望も怒りも起こらないのです。

「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人」は、識別作用が滅した人なのです。ですから、怒りが存在しないのです。もちろん、欲望も存在しません。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 16偈

16 真実を語れ。怒るな。乏しいなかから与えよ。これらの三つの事を具現したならば、(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。 

(ダンマパダ224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

私が比丘であった時、ダンマパダ224の因縁物語を子供たちによく話しました。
「どうしたら神様になれるか知っていますか?」と子供たちに聞くと、彼らは眼を輝かせてこちらに注意を向けます。その内容は下に引用します。

この偈は人々に道徳を教えるものです。道徳を学び、実践することは人々の利益(りやく)になります。しかし、神々になりたいという望みに留まるならば、功徳になりません。輪廻から解脱できないのです。神々の世界を超えた世界(ニルヴァーナ)があることを知るべきでしょう。


*ダンマパダ224の因縁物語(北嶋泰観訳注「パーリ語仏典ダンマパダ」より引用)

ある日、モッガラーナ長老は神通力を使って神々の世界に昇り、そこで幾つかの豪邸を見つけた。そして長老はその付近に住んでいる神々に、「どのような善行為によって、このような神々の世界に輪廻転生することができたのですか?」と尋ねた。

一人は恥ずかしそうに、「私は前世において施しもせず、説法を聞くこともありませんでした。唯、嘘をつかなかっただけです。」と答えた。

またもう一人は、「私は前世ではそれほど多くの善行をした覚えはばいのですが、唯、仕えていた主人に叩かれいじめられても怒ることがなかったのです。」と答えた。

また別の神は、「私は施しをお願いされた時、ほんの少しの砂糖や果物や野菜などをあげただけです。」と答えたのである。

そしてモッがラーナ長老は地上に戻るとその足で仏陀を訪ね、「尊者よ、あのような少しの善行によって神々の世界に行けるのでしょうか?」と質問した。

仏陀は「私の息子よ、なぜそのような質問をする。たった今自分の目で見て来たではないか。自分の耳で聞いて来たではないか。」と語られ、「真実を語る、怒ることがない、求められた時、たとえ少しでも施しをする。実にこの三つの要因によって彼は死後天界のそばへ行くことができる」と説かれたのである。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 15偈

15 集会の中でも、また相互にも、怒ってことばを発してはならない。怒りに襲われた人は、自分の利益をさとらないのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒っている人の行為はすべて悪行為です。ですから、怒っている時は、何も話さずに、何もしないで、怒りを静めることが一番大切です。

「怒りに襲われた人」とは、言うまでもなくありませんが、怒っている人です。

「自分の利益をさとらないのである。」は、自分の利益がわかっていないということです。ここで注意すべきは、仏教では普通、「利益」を「りやく」と読み、世間の「利益(りえき)」とは区別しています。

利益(りえき)は世間でいう損得の得という意味ですが、利益(りやく)は功徳に結びつくものです。また功徳は解脱に結ぶつくものです。利益(りえき)は解脱(さとり)とは無関係です。

怒っている人は、利益(りやく)はもちろん、利益(りえき)もありません。怒っている人が言葉を出せば、自分を傷つけ、相手を傷つけ、回りの人を不快にさせます。解脱に近づくことはありません。死後には悪所(地獄など)に行くこともあるのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 14偈

14 ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。ひとは、争いたくないから、同輩のことばを恕す。しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人がおれば、それを聖者らは、この世における<最上の忍耐>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

はじめに、「恕す」の意味を調べておきましょう。恕す=恕するです。goo辞書には「思いやりの心で罪や過ちを許す。」と書いてありました。ですから、単なる「許す」とは違います。

「優れた人のことばを恕す」は、偈にもありますように、恐怖ゆえなのです。これは自分のために相手のことばを容認しているのです。

「同輩のことばを恕す」は、争いたくないからという理由で、これも自分のために相手のことばを容認しているのです。

これらに対して、「自分よりも劣った者のことばを恕す」は、自分のために相手のことばを容認するのではありません。本当に相手を思いやって、相手のことばを容認しているのです。

ですから、それを聖者らは、この世における<最上の忍耐>と呼ぶのです。

すでに、この「第20章 怒り」の次の偈で「最上の忍耐」について述べられていました。同様の趣旨です。参考にしてください。

7 この人が力の有る者であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

8 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

9 力のある人が、他人から謗られても忍ならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

SRKWブッダのホームページには次の「理法」が掲載されています。ぜひ参照してください。
【恕(じょ)すこと】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

【恕(じょ)すことと許すこととは違う】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113_sub.htm





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 13偈

13 愚者は、荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える。しかし謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

夜は何のわだかりもなく、心配もなく、眠くなればすぐに眠りにつき、朝は爽やかに目が覚めて明るい朝を迎えられる人がいます。

一方、夜になっても、怒りがおさまらず、あれこれ心配ごとが多く、体は疲れているので、ベットに入るのですが、なかなか眠られず、やっと眠りについても、目覚まし時計に起こされます。しかしなかなか目が覚めず、今日も一日大変だなといやいや起きる人がいます。

どちらが勝っていると言えるでしょうか?

荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える人は、後者なのです。荒々しいことばを語る人の心は揺れ動き、静まりません。それに対し、謗りを忍ぶ人の心は静かで、穏やかですので、安眠できるのです。ですから、「常に勝利があるのだ」と言えるのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 10偈、11偈、12偈

10 他人が怒ったのを知って、それについて自(みずか)ら静かにしているならば、その人は、自分をも他人をも大きな危険から守ったことになる。

11 他人が怒ったのを知って、それについて自(みずか)ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

12 自分と他人と両者のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。___ことわりを省察することもなく。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

他人が怒ったのに反応して、それに対して怒り返すのが世間の反応であります。

最近話題になっている車の運転における「あおり」の問題も、何かの切っ掛けであおりを受けたのに対して、反応するから事件になりますが、あおりを受けても、冷静に対応して、相手をやり過ごせば問題にならないのです。

すでに述べましたように、怒りは毒の根でありますから、自分の体を害し、回りの人々を不愉快にし、来世には地獄などの悪所に生まれ変わる原因になります。

他人が怒ったのを知っ他のならば、その怒りに対して、怒りで反応せずに、自(みずか)ら静かにしているならば、自分を怒りから守ることになります。また他人の怒りを増幅せずに、怒りを静めることになりますから、その人は、怒りの危険から自分も他人も守ったことになります。またそのことは自分にも他人にも、ためになることをしているのです。

怒りに対して、怒りで返さないことを、世間(愚者)は勇気がないと考えますが、それはとんでもない間違いで、そのような行為はただ反応するだけの虫けらのようなな行為なのです。

怒りに対して、冷静でいることは、智慧ある勇者だけができる行為なのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 7偈、8偈、9偈

7 この人が力の有る者であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

8 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

9 力のある人が、他人から謗られても忍ならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

本当は偶然ではないのでしょうが、今朝偶然目にした庄野英二の「鶏冠詩人伝」のあるページの次の文書を引用します。

(以下引用)
 主人公の少年は、横浜港の海岸沿いの道を歩いて、毎日、西洋人の子供も混じっている小学校に通う。少年は港に碇泊している汽船の喫水線に近い部分の洋紅色と海の藍色がたまらなく好きであった。
 少年は画を描くのが好きであったが、彼の持っている絵具では「洋紅色」と「藍色」がうまく出なかった。
 西洋人の友だちは、「洋紅色」と「藍色」が美しく発色する上等の絵具を持っていた。
 ある秋の日のひる休み、少年は魔がさして思わず二種の絵具を盗んでしまう。
 事件が発覚する。少年は体格のよい西洋人の子供たちに引き立てられて、別棟二階の受付の女の先生の部屋へ連れて行かれる。
 少年は、白いリンネルの服を着た受付の先生が好きであった。
 泣きじゃくっている少年を残して先生は授業に出かけて行く。
 少年はいつしかうたたねをしてしまっていた。やがて、先生が帰ってきた。先生はニッコリほほえんで、「あした必ず学校へくるのですよ」
 と優しく諭し、少年はこっくりをする。
 先生は、白いリンネルの服の上半身を窓からのりだして、銀色のはさみで一房の葡萄を摘みとり少年に与えた。
 少年は、その時の先生の美しい手と、白い粉をふいた葡萄の色が何年たっても鮮やかに思い出されるのであった。
(以上引用)

この文章は有島武郎著「一房の葡萄」の庄野英二の要約です。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html


この文章を引用しましたのは、この若い女の先生の心が今回の三つ偈の意味を教えてくれるからです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 6偈

6 或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる。怒って徳行の無い人には道の実践ということが無い。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる。」の意味はイソップ寓話「北風と太陽」の話を思い出せばわかります。そのあらすじは次の通りです。

「あるとき、北風と太陽が力比べをしようとしました。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をすることにしました。まず、北風は力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとするのです。しかし寒さを嫌った旅人は上着をしっかり押さえてしまい、旅人の服を脱がせることができなません。これに対して太陽はやさしく暖かい光を旅人に投げかけました。すると旅人は暖かくなって、自分から上着を脱ぎました。これで、太陽の勝ちとなりました。」

この話でわかることは、力いっぱい無理に上着を脱がせようとしても効果がなく、やさしく相手の意思に任せて行った方が効果があるということです。

「怒ったならば、その力は力ではなくなる。」は、怒った人は相手の意思を考慮せずに自分の思いだけで行動しますから、その人の力は効果がないということです。

「怒って徳行の無い人には道の実践ということが無い。」は、徳行は相手があって成立するものです。怒っている人は相手の意思を考慮することがありませんから、徳行は実践できません。すなわち、道の実践がないということです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 5偈

5 かれは、恥じることもなく、愧じることもなく、誓戒をまもることもなく、怒りたける。怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)この世に存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「恥じる」と「愧じる」という言葉が使われています。「恥じる」は自分に恥じること、つまり自分の良心に恥じることと考えてよいでしょう。「愧じる」は他人に恥じること、他人に迷惑をかけたなと恥じることです。

「誓戒をまもることもなく」は自分の良心に恥じることの別の表現です。「怒りたける」は他人に迷惑をかけると思うことのない人がなるのです。

「怒りに襲われた者」は、自分を正す「帰趣(よるべ)」すなわち、「自分の良心」も「他人の目」も存在しないのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 4偈

4 怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒りたけった人とは、狂気の人と言っていいのです。狂気の人は自分の考えていること、言っていることが混乱してわからなくなっているのです。そのために、善いことでも悪いことだと言い立てるのです。

そして、怒りがおさまった時に、正気に戻ります。そのとき、自分が言ったことを思い出して、「穴があったら入りたい」と恥ずかしくなり、苦しむのです。

しかし、そのように苦しむ人は、その後彼は反省して、怒らなくなる可能性があります。中には暴言を吐いても、当然だと思っている人がいますが、そのような人は救いないと言ってもよいでしょう。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 3偈

3 怒りを滅ぼし安らかに臥す。怒りを滅ぼして悩まない。毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼすことを、聖者らは称賛する。修行僧らよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒りをなくしたら、安眠できます。

怒りをなくしたら、本当に悩むことがなくなります。

怒りは、毒の根とはよく言いました。人は怒ると、アドレナリンが過剰に分泌します。そうすると血圧が上昇し、身体に色々な障害をもたらします。というわけで怒りは本当に毒の根なのです。

人は怒ると唾液が分泌しなくなり、味がよくわからくなります。そのために甘味を害うのです。もちろん怒ると味どころではないというということです。

怒りを滅ぼすと、心が静かになり、心が安定して、物事を正しく見えるようになります。物事を正しく見えるようになると、賢くなります。そのために、聖者らは称賛するのです。