感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 18偈

18 山の頂(いただき)にある岩の上に立っている人があまねく四方に人々を見下すように、あらゆる方向に眼をもっているこの賢明なる人は、真理の高閣(たかどの)に登って、(自分は)憂いはなくして、生れと老いとに打ち克たれ、憂いに悩まされた人々を見た。

                      以上第21章 如来
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ28は、似たような偈であります。 

「賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。____山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。」

この偈について、初めは良い印象を持っていませんでした。何か威張っている感じでした。しかし、今ではわかります。如来の正直な気持ちです。決して威張っているわけではありません。
昨日の17偈にあるように、「生きとし生ける者どもを観じて、世のためを念(おも)うている」のです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 17偈

17 その聖者は完全な自在を得、一切のものにまさり、すべての恐怖から解脱し、愛執を捨て、汚れ無く、生きとし生ける者どもを観じて、世のためを念(おも)うている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は般若心経に似ています。

その聖者は完全な自在を得・・・・・観自在菩薩。

一切にまさり・・・・・度一切苦厄。

すべての恐怖から解脱し・・・・・無有恐怖。

愛執を捨て・・・・・以所得故。

汚れ無く・・・・不垢不浄。

生きとし生ける者どもを観じて・・・・・照見五蘊皆空。

世のためを念(おも)うている・・・・・説般若波羅蜜多呪。


般若心経について、世の中には色々な解釈がありますが、それらにあまりこだわらず、般若心経の内容はこの偈のようなものだと思った方がよいのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 16偈

16 如来なる仏はこの世で自ら現れたものであり、闇を除き、彼岸に達した大仙人であるが、かれに二つの思いがしばしばはたらきかける。___(一つは)安穏という思いであり、(他の一つは)人を離れて孤独をたのしむことと結びついている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は如来の思いはどのようなものかを示しています。

一つは、安穏という思いです。安穏は辞書的には「心静かに落ち着いていること」ですが、如来の思いは、他を害することをないことを喜び、他を害しないことを楽しむということです。SRKWの言葉を借りれば、自分を含めて誰も悲しめないことを喜び、楽しむということです。

他の一つは、人を離れて孤独をたのしむことと結びついていることとありますが、いわゆる孤独を楽しむこととは違います。むしろ、世間の喧騒から離れて、静けさを喜び、楽しむことです。

孤独については、SRKWブッダの理法「孤独」がありますから、引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou335.htm

(以下引用)
【孤独】
 修行者が孤独であるべき――孤独の境地に励むべき――であると言うのは、修行はすべて自分自身のことがらであり他者との関わりに よって修行が進むなどということがまったく無いというほどの意。したがって、修行者が孤独であるべきというのは世人が孤独であることとは意味合いが違う ところで、もちろん覚りの機縁は他者との縁によるものであるが、これは世間の人の関わりとは違うものとなる。すなわち、修行者は孤独であってはならず世間 の人々と一定の関わりを持つべきである。しかし、そのようでありながら修行者は孤独の境地に励むべきであると説かれるのである。

 また、ブッダの孤独と言うのは、ブッダが孤独であるという意味では無い。これは、「もし世界に自分一人だけしか存在していないとするならば、たとえ衆生であっても一切の苦悩は終滅する(苦悩がそもそも 生起しない)」ことと同義のことがらとしてのことである。この意味においてブッダは孤独であり、しかしそれゆえに一切の苦悩から解脱していると知られるのであ る。
(以上引用)

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 15偈

15 仏の教えをつねに信じる人々は幸運とともに進むであろう。___商人たちが天馬によって(はこばれる)ように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏の教えをつねに信じるから、幸運とともに進むのではありません。幸運とともに進むのは、その人の心が清らかだからです。仏の教えをつねに信じる人々の心は清らかなのです。何故ならば、仏の教えは「人々に、やさしい人間になれ」ということだと知って、それを心がけているからです。

このことを理解するために、参考になるダンマパダの偈を引用します。

「2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。」



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 14偈

14 仏の教えを信じない人々は、わざわいに遭うであろう。___商人たちが羅刹女たちに取りかこまれるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏の教えを信じないから、わざわいに遭う訳ではありません。わざわいに遭うのは、その人の心が汚れているからなのです。しかし、仏の教えを信じない人々の心は、汚れているのです。それで、わざわいに遭うのです。仏の教えは、「人々にやさしい人間になれ」と教えるものなのです。

心が汚れた人が、わざわいに遭うことについて、参考になるダンマパダの偈を引用します。

「1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。___車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。」

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 13偈

13 それ故に、この世に置いて自己を達成しようと欲し、偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重しなければならない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を読んで、では「仏の教え」あるいは「正しい教え」とは何かと問われれば、次の理法を推薦を推薦します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou266.htm


(以下引用)

【正法によって覚る】

衆生にとって人生は苦であり、短い。人生に時おり苦があるのではない。衆生にとって人生すべてが苦である。この世はすべて煩悩の火が燃えさかっているからである。しかし愚かな者は人生を喜び、苦に安住して、歓喜の人生が永遠に続くかの如くに思っている。あるいはまた、人生が苦であると気づいた者でも苦を離れることができず、ある者は苦によって苦を捨てようとさえする。苦を喜ぶ者は覚らない。苦を苦によって捨てようとする者も覚らない。その一方で、苦の真実を識った人は覚る。苦の真実を識った人は直ちに苦の解決を見るからである。これが覚りの真実である。どちらを選ぶのも各自のことがらである。聡明な人は覚りに至る道を選択せよ。

万巻の書を読破しても、善知識の一言を聞き逃すならば努力は空しい。如来に千万年仕えても、自ら覚ることがないならばそのつとめは悲しい。だからと言って覚れないのではない。文字を知らない人でも覚ることができる。如来がこの世にいない時代の人でも覚りに到達できる。こころある人は人生を空しくするな。

ところで、人は如来の言葉(理法)を学んで覚るのではない。人は正法によって、正法の通りのことが世に起こるのを眼のあたりにして、そして覚るのである。これは因縁によるものであって生き身の如来の存在とは無関係である。こころある人は如来の言葉を聞いて正法の何たるかを理解し、信じた正法によってまさしく覚りに到達せよ。

(以上引用)





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 11偈、12偈

11、12 過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、___正しい教えの師であるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏のあいだの決まりである。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、過去に正しく覚った方がおられたし、現在も正しく覚った方はおられるし、これから先にも正しく覚る方が現れることを教えています。

これは決して人ごとではありません。このブログを読まれているあなたが、将来、時間は特定できませんが、明日か、一年後か、十年後にさとられる可能性があることを宣言しているのです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 9偈、10偈

9 正しいさとりを開き、つねに幸(さち)あり、瞑想に専念している思慮ある人々は、世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえも、かれを羨む。 

10 正しくさとりを開いた人々、誉れあり、速やかに知能がはたらき、最後の身体をたもっている人々を、神々も人間たちも羨むのである。

(ダンマパダ180 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「正しいさとりを開き」とは、正法にしたがって覚りを開いたということです。

これについては、SRKWブッダのホームページ「覚りの境地」の正法の欄から次の言葉を引用します。

「真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経)」

また、この正法の詳細について、次の理法を引用します
http://srkw-buddha.main.jp/rokuharamitu.htm

(以下引用)

【六波羅蜜】

勝鬘経(摂受正法章)は、六波羅蜜と正法の関係について次のように述べています。

{前を略}

さて世尊よ、〈真実の教えをしっかりと身につける〉と申しますが、ここで、真実の教えそのもの(つまり〈正法〉)と、それをしっかりと身につけることは、別々のことではございません。真実の教えをしっかりと身につけること自体が、真実の教えなのでございます。

ところで、この〈真実の教えをしっかり身につけること〉は、もろもろの完全・究極的な実践行(〈波羅蜜〉)と別ではございません。真実の教えを身につけることは、具体的にいえば、六つの完全・究極的な実践行を実践することに他なりません。

{後略}

[補足説明]

六波羅蜜とは、次の6つのことを指しています。

 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

なお、このうちの布施、忍辱、精進、持戒の4つを徳(徳目)と名づけ、これらは不完全ながらも世間において見ることができるものです。 一方、禅定、智慧の2つは、如来および善知識のみが持つ特質であり、この2つは出世間の立場においてのみ世に現出し、人々(衆生)に向けて示現されるものです。

(以上引用)





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 8偈

8 偉大な英雄である諸の如来は、この世で、正しい教えをとどろかせよう。正しい教えをとどろかせたまう人々を、いかなる智者たちが嫉むであろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

諸々の如来は輪廻の世界を支配している悪魔の軍団に打ち勝ったので、偉大な英雄なのです。
諸々の如来は、因縁によって正法を知り、善知識に遭遇し、解脱したので、そのことを獅子吼するのです。
この世の凡夫たちはそれに関心を示しませんが、賢者たちはそれを喜ぶのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 7偈

7 心が静まり思慮深い立派な人々は、世の移りゆくありさまを知って、汚れの無い境地を告げるのであって、(世の凡夫のあいだで)目につくようなことは無い。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

多くの人々は、派手なもの、騒がしいものに関心があります。これは心が刺激を求めているからです。心は静まると退屈し、死んでしまうと思っているのです。

ですから、心が静まり思慮深い立派な人々が告げる汚れの無い境地(世界)には興味がなく、それに関心を向けることはほとんどないのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 6偈

6 われはベナレスに行くであろう。われは不死の太鼓を打つであろう。世間においてまだ回転されたことのない、法輪を、われは回転するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ベナレスはヴァーラーナシーのこと、ガンジス川沿いにあるインドの聖地、近郊に釈尊が最初に説法をしたといわれるサールナート(鹿野苑)があります。

不死とは死なない、滅びることのないという意味です。ここで太鼓とは説法のことです。すなわち、不滅の真理を説く説法ということになります。

「法輪」とは、これも説法を意味しています。ですから、説法をすることを「法輪を回転する」と言います。

釈尊がサールナートで説いた経は、「(初)転法輪経」として有名です。仏教の中道、四諦八正道などが最初に説かれたのものであります。また世間においてまだ回転されたことのない法であることが繰り返し述べられています。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 5偈



5 汚れを滅ぼし尽くすことのできた人々は、わたしのような「勝利者」であると知るべきである。わたしは悪いことがらに打ち勝った。それ故にわれは勝利者である。ウパカよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

悪魔が輪廻の世界を支配しているということは、人々の心を支配しているということです。悪魔の支配の武器は欲望を中心とした諸々の煩悩です。これが心の汚れなのです。この汚れを滅ぼし尽くすことのできた人々は、悪魔に打ち勝った「勝利者」なのです。

「ウパカ」はゴータマ・ブッダが解脱後、最初に説法した人の名前と言われていますが、岩波文庫の注によると、「近づく者」という意味があるようです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 4偈

4 われにはいかなる師も存在しない。われに等しい者は存在しない。この世において唯だ一人の完全に覚った者であり、最上の完きさとりを得たのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

これは、二千数百年前のインドのゴータマ・ブッダの言葉です。ゴータマ・ブッダには師は存在しませんでした。彼に等しい者は存在しませんでした。その当時、彼は唯だ一人の完全に覚った者であり、最上の完きさとりを得た者だったのです。

しかし、2019年5月法津如来は次のように述べます。

私の師はSRKWブッダです。現在私に等しい者は少なくとも5人は存在します。この世において完全に覚った者であり、最上の完きさとりを得た者です。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 3偈

3 われは世間において敬われるべき者(真人)である。われは世間において無上の者である。神々と人間との世界において、われは悪魔に打ち勝った勝利者である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

われとは阿羅漢です。阿羅漢はパーリ語のアラハンの音写で、敬われるべき者という意味です。訳者の中村先生は阿羅漢を真人と訳しますから、カッコで真人としてあるのです。

阿羅漢は敬われるべき者ではありますが、世間では阿羅漢を阿羅漢であると知る人は少なく、それを知る人しか、阿羅漢を敬いません。

阿羅漢は世間において無上の者ではありますが、世間のほとんど人々はそれを知りません。

神々の世界も人間の世界も輪廻の世界の中にあるのです。悪魔は欲望という武器を使って輪廻の世界を支配しているのです。阿羅漢は解脱して、輪廻の世界を脱出したのですから、悪魔に打ち勝った勝利者なのです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 2偈

2 等しき者もなく、比べるべき者もない人は、誰を[師と]呼ぶのであろうか。自(みず)から悟りを得て、自(みず)から教えを説く人なのであるから。如来は神々と人間との師であり、全てを知る者(=一切智者)となって、(知慧の)力をそなえている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
過去仏(如来)は、何千何万とおられ、それらの仏の因縁も諸々です。ゴータマ・ブッダやSRKWブッダのような方は、師と呼ぶような方はおられませんでしたが、サーリプッタ仏や慧能仏には師はおられました。法津如来、法捗如来、石法如来にはSRKWブッダという師がおられます。また、法風如来はSRKWブッダの弟子ではないのですが、その方に縁のある方であることは間違いないのです。

如来は、師がおられようがおられまいが、自(みず)から悟りを得て、自(みず)から教えを説く人なのです。

如来の説法は、問われた人のみならず、すべての人々に向けてされています。それはすべての人々の幸せを願っているからです。そのとき、神々もそれ説法を聞いているのです。ですから、如来は神々と人間との師であるのです。

「全てを知る者(=一切智者)となって」とは、すべての事柄の真実(=真相、本質、根本、根源)を知る者となってという意味です。

すべての事柄の真実を知ったがゆえに、智慧の力をそなえているのです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第21章 如来 1偈

1 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。 

(ダンマパダ353 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「すべてに打ち勝ち」というと誤解されやすいのですが、すべての煩悩に打ち勝ちということです。

「すべてを知り」とは、すべての根源を知ったということです。ですから、すべての事柄に対して、問われれば、答えられます。

「あらゆることがらに関して汚されていない」は、あらゆる事柄に関して先入観を持っていないということです。ですから、あらゆる事柄に関して偏見がなく、正しく判断できるのです。

「すべてを捨てて」は、すべての煩悩を捨てての意味です。

「愛欲は尽きた」は、自分のものという欲はなくなったということです。

「こころは解脱している」は、心から名称に対する執着と形態に対する執著がなくなったということです。

「みずからさとった」、これは、自分の一大事の因縁によって、善知識(善友)に会い、法の句を聞いてさとったということです。どういうものが正法か教えてもらった師はいるかもしれませんが、さとるのは自分なのです。さとるための師はいないのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 22偈

22 走る車をおさえるように、ここでむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。そうでなければ、この人はただ手綱(たづな)を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

(ダンマパダ222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱(たづな)を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。) 

               以上第20章 怒り

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「怒りはいけない、怒りは毒だ」と思考では理解し、それをやめようと思った後も、何回も怒りが現れた。怒りが現れると気づく前に、怒りが現れていました。そして、後悔するのでした。確かに、その<御者>とは言えません。

確か「法の句」を聞く直前も怒りが現れていました。それに対して深く懺悔をしました。その直後に、10歳になる孫から「法の句」を聞いたのです。

その後は、怒りは現れていません。確かに<御者>になったのです。


(本日は、サーバーのメンテナンスのために、掲載が遅れました。)



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 20偈、21偈

20 怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか? かれには怒りは存在しない。

21 怒らぬことと不傷害とは、つねに気高い人々のうちに住んでいる。怒りは悪人のうちにつねに存在している。___山岳のように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

20偈は、17偈と内容が同一なので、そちらのコメントを参照してください。
https://76263383.at.webry.info/201905/article_11.html


21偈について。
不傷害はアヒンサーの日本語訳です。アヒンサーは非暴力という意味で、殺さない、暴力を振るわないということです。怒りによって暴力は振るわれますから、怒りのない人は暴力を振るわないのです。

21偈の「___山脈のように」は、釈尊はヒマラヤ山脈をイメージしていたのでしょう。とすると怒らないことはヒマラヤ山脈のように気高い人々の心のうちに住んでいることになります。また、怒りは悪人の心のうちにヒマラヤ山脈のように住んでいることになるのです。

怒らない山脈ができた人々は、つねに気高い人々なのです。

怒りの山脈のある人は、つねに悪人ですが、なんとかその山脈を掘り崩して、怒らない山脈を作って欲しいと思います。「愚公山を移す」という諺がありますから、不可能ではありません。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 19偈

19 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

(ダンマパダ223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

誰かが怒っていたら、自分は怒らないようにしよう。
自分が怒っていたら、すぐにそれに気づいて、怒るのをやめる。

誰かが悪いことをしたら、自分は善いことをしよう。
自分が悪いことをしようとしたら、すぐにそれに気づいて、悪いことをしないようにする。

誰かが物惜みをしたら、自分はわかち合おう。
自分が物惜みをしようとしたら、すぐにそれに気づいて、物惜みをやめる。

誰かが嘘をついたら、自分は嘘をつかない。
自分が嘘をつこうとしたら、すぐにそれに気づいて、嘘をつかない。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 18偈

18 怒った人に対して怒り返す人は、悪をなすことになるのである。怒った人に対して怒らないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

世間の一部では、「怒った人に対して怒り返す」のは正当だと思われています。しかし、どんな理由にせよ怒ることは悪なのです。何回も説明しましたが、怒り自分にも、相手にも、回りの人にも、よくないことをしているのです。

怒った人に対して怒らないことは、難しいことです。どんな人も自分の考えは正しい、自分の行動は正当であると思って行動しています。怒る人もそのように思って怒るのですが、怒られた人も自分の考えは正しい、自分の行動は正当であると思っていますから、怒られるのは不当であると思って怒り返すのです。そのために、世の中には怒りの連鎖が続くのです。

ところが、怒った人に対して怒り返さないならば、怒りの連鎖を断ち切ることになるでしょう。争いを止めるという勝ち難き戦にも勝つことになるでしょう。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 17偈

17 心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか? はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

欲望と怒りは、快と不快によって起こります。快があるとき欲望が起こり、不快があるとき怒りが起こるのです。快と不快は、感官による接触にもとづいて起こります。このとき識別作用があると快と不快が現れるのです。識別作用の滅した人は、快と不快が現れませんから、欲望も怒りも起こらないのです。

「心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人」は、識別作用が滅した人なのです。ですから、怒りが存在しないのです。もちろん、欲望も存在しません。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 16偈

16 真実を語れ。怒るな。乏しいなかから与えよ。これらの三つの事を具現したならば、(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。 

(ダンマパダ224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

私が比丘であった時、ダンマパダ224の因縁物語を子供たちによく話しました。
「どうしたら神様になれるか知っていますか?」と子供たちに聞くと、彼らは眼を輝かせてこちらに注意を向けます。その内容は下に引用します。

この偈は人々に道徳を教えるものです。道徳を学び、実践することは人々の利益(りやく)になります。しかし、神々になりたいという望みに留まるならば、功徳になりません。輪廻から解脱できないのです。神々の世界を超えた世界(ニルヴァーナ)があることを知るべきでしょう。


*ダンマパダ224の因縁物語(北嶋泰観訳注「パーリ語仏典ダンマパダ」より引用)

ある日、モッガラーナ長老は神通力を使って神々の世界に昇り、そこで幾つかの豪邸を見つけた。そして長老はその付近に住んでいる神々に、「どのような善行為によって、このような神々の世界に輪廻転生することができたのですか?」と尋ねた。

一人は恥ずかしそうに、「私は前世において施しもせず、説法を聞くこともありませんでした。唯、嘘をつかなかっただけです。」と答えた。

またもう一人は、「私は前世ではそれほど多くの善行をした覚えはばいのですが、唯、仕えていた主人に叩かれいじめられても怒ることがなかったのです。」と答えた。

また別の神は、「私は施しをお願いされた時、ほんの少しの砂糖や果物や野菜などをあげただけです。」と答えたのである。

そしてモッがラーナ長老は地上に戻るとその足で仏陀を訪ね、「尊者よ、あのような少しの善行によって神々の世界に行けるのでしょうか?」と質問した。

仏陀は「私の息子よ、なぜそのような質問をする。たった今自分の目で見て来たではないか。自分の耳で聞いて来たではないか。」と語られ、「真実を語る、怒ることがない、求められた時、たとえ少しでも施しをする。実にこの三つの要因によって彼は死後天界のそばへ行くことができる」と説かれたのである。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 15偈

15 集会の中でも、また相互にも、怒ってことばを発してはならない。怒りに襲われた人は、自分の利益をさとらないのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒っている人の行為はすべて悪行為です。ですから、怒っている時は、何も話さずに、何もしないで、怒りを静めることが一番大切です。

「怒りに襲われた人」とは、言うまでもなくありませんが、怒っている人です。

「自分の利益をさとらないのである。」は、自分の利益がわかっていないということです。ここで注意すべきは、仏教では普通、「利益」を「りやく」と読み、世間の「利益(りえき)」とは区別しています。

利益(りえき)は世間でいう損得の得という意味ですが、利益(りやく)は功徳に結びつくものです。また功徳は解脱に結ぶつくものです。利益(りえき)は解脱(さとり)とは無関係です。

怒っている人は、利益(りやく)はもちろん、利益(りえき)もありません。怒っている人が言葉を出せば、自分を傷つけ、相手を傷つけ、回りの人を不快にさせます。解脱に近づくことはありません。死後には悪所(地獄など)に行くこともあるのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 14偈

14 ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。ひとは、争いたくないから、同輩のことばを恕す。しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人がおれば、それを聖者らは、この世における<最上の忍耐>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

はじめに、「恕す」の意味を調べておきましょう。恕す=恕するです。goo辞書には「思いやりの心で罪や過ちを許す。」と書いてありました。ですから、単なる「許す」とは違います。

「優れた人のことばを恕す」は、偈にもありますように、恐怖ゆえなのです。これは自分のために相手のことばを容認しているのです。

「同輩のことばを恕す」は、争いたくないからという理由で、これも自分のために相手のことばを容認しているのです。

これらに対して、「自分よりも劣った者のことばを恕す」は、自分のために相手のことばを容認するのではありません。本当に相手を思いやって、相手のことばを容認しているのです。

ですから、それを聖者らは、この世における<最上の忍耐>と呼ぶのです。

すでに、この「第20章 怒り」の次の偈で「最上の忍耐」について述べられていました。同様の趣旨です。参考にしてください。

7 この人が力の有る者であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

8 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

9 力のある人が、他人から謗られても忍ならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

SRKWブッダのホームページには次の「理法」が掲載されています。ぜひ参照してください。
【恕(じょ)すこと】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

【恕(じょ)すことと許すこととは違う】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113_sub.htm





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 13偈

13 愚者は、荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える。しかし謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

夜は何のわだかりもなく、心配もなく、眠くなればすぐに眠りにつき、朝は爽やかに目が覚めて明るい朝を迎えられる人がいます。

一方、夜になっても、怒りがおさまらず、あれこれ心配ごとが多く、体は疲れているので、ベットに入るのですが、なかなか眠られず、やっと眠りについても、目覚まし時計に起こされます。しかしなかなか目が覚めず、今日も一日大変だなといやいや起きる人がいます。

どちらが勝っていると言えるでしょうか?

荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える人は、後者なのです。荒々しいことばを語る人の心は揺れ動き、静まりません。それに対し、謗りを忍ぶ人の心は静かで、穏やかですので、安眠できるのです。ですから、「常に勝利があるのだ」と言えるのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 10偈、11偈、12偈

10 他人が怒ったのを知って、それについて自(みずか)ら静かにしているならば、その人は、自分をも他人をも大きな危険から守ったことになる。

11 他人が怒ったのを知って、それについて自(みずか)ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。

12 自分と他人と両者のためになることを行っている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。___ことわりを省察することもなく。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

他人が怒ったのに反応して、それに対して怒り返すのが世間の反応であります。

最近話題になっている車の運転における「あおり」の問題も、何かの切っ掛けであおりを受けたのに対して、反応するから事件になりますが、あおりを受けても、冷静に対応して、相手をやり過ごせば問題にならないのです。

すでに述べましたように、怒りは毒の根でありますから、自分の体を害し、回りの人々を不愉快にし、来世には地獄などの悪所に生まれ変わる原因になります。

他人が怒ったのを知っ他のならば、その怒りに対して、怒りで反応せずに、自(みずか)ら静かにしているならば、自分を怒りから守ることになります。また他人の怒りを増幅せずに、怒りを静めることになりますから、その人は、怒りの危険から自分も他人も守ったことになります。またそのことは自分にも他人にも、ためになることをしているのです。

怒りに対して、怒りで返さないことを、世間(愚者)は勇気がないと考えますが、それはとんでもない間違いで、そのような行為はただ反応するだけの虫けらのようなな行為なのです。

怒りに対して、冷静でいることは、智慧ある勇者だけができる行為なのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 7偈、8偈、9偈

7 この人が力の有る者であっても、無力な人を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

8 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

9 力のある人が、他人から謗られても忍ならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに(同情して)忍んでやらねばならぬ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

本当は偶然ではないのでしょうが、今朝偶然目にした庄野英二の「鶏冠詩人伝」のあるページの次の文書を引用します。

(以下引用)
 主人公の少年は、横浜港の海岸沿いの道を歩いて、毎日、西洋人の子供も混じっている小学校に通う。少年は港に碇泊している汽船の喫水線に近い部分の洋紅色と海の藍色がたまらなく好きであった。
 少年は画を描くのが好きであったが、彼の持っている絵具では「洋紅色」と「藍色」がうまく出なかった。
 西洋人の友だちは、「洋紅色」と「藍色」が美しく発色する上等の絵具を持っていた。
 ある秋の日のひる休み、少年は魔がさして思わず二種の絵具を盗んでしまう。
 事件が発覚する。少年は体格のよい西洋人の子供たちに引き立てられて、別棟二階の受付の女の先生の部屋へ連れて行かれる。
 少年は、白いリンネルの服を着た受付の先生が好きであった。
 泣きじゃくっている少年を残して先生は授業に出かけて行く。
 少年はいつしかうたたねをしてしまっていた。やがて、先生が帰ってきた。先生はニッコリほほえんで、「あした必ず学校へくるのですよ」
 と優しく諭し、少年はこっくりをする。
 先生は、白いリンネルの服の上半身を窓からのりだして、銀色のはさみで一房の葡萄を摘みとり少年に与えた。
 少年は、その時の先生の美しい手と、白い粉をふいた葡萄の色が何年たっても鮮やかに思い出されるのであった。
(以上引用)

この文章は有島武郎著「一房の葡萄」の庄野英二の要約です。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html


この文章を引用しましたのは、この若い女の先生の心が今回の三つ偈の意味を教えてくれるからです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 6偈

6 或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる。怒って徳行の無い人には道の実践ということが無い。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる。」の意味はイソップ寓話「北風と太陽」の話を思い出せばわかります。そのあらすじは次の通りです。

「あるとき、北風と太陽が力比べをしようとしました。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をすることにしました。まず、北風は力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとするのです。しかし寒さを嫌った旅人は上着をしっかり押さえてしまい、旅人の服を脱がせることができなません。これに対して太陽はやさしく暖かい光を旅人に投げかけました。すると旅人は暖かくなって、自分から上着を脱ぎました。これで、太陽の勝ちとなりました。」

この話でわかることは、力いっぱい無理に上着を脱がせようとしても効果がなく、やさしく相手の意思に任せて行った方が効果があるということです。

「怒ったならば、その力は力ではなくなる。」は、怒った人は相手の意思を考慮せずに自分の思いだけで行動しますから、その人の力は効果がないということです。

「怒って徳行の無い人には道の実践ということが無い。」は、徳行は相手があって成立するものです。怒っている人は相手の意思を考慮することがありませんから、徳行は実践できません。すなわち、道の実践がないということです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 5偈

5 かれは、恥じることもなく、愧じることもなく、誓戒をまもることもなく、怒りたける。怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなる帰趣(よるべ)この世に存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「恥じる」と「愧じる」という言葉が使われています。「恥じる」は自分に恥じること、つまり自分の良心に恥じることと考えてよいでしょう。「愧じる」は他人に恥じること、他人に迷惑をかけたなと恥じることです。

「誓戒をまもることもなく」は自分の良心に恥じることの別の表現です。「怒りたける」は他人に迷惑をかけると思うことのない人がなるのです。

「怒りに襲われた者」は、自分を正す「帰趣(よるべ)」すなわち、「自分の良心」も「他人の目」も存在しないのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 4偈

4 怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒りたけった人とは、狂気の人と言っていいのです。狂気の人は自分の考えていること、言っていることが混乱してわからなくなっているのです。そのために、善いことでも悪いことだと言い立てるのです。

そして、怒りがおさまった時に、正気に戻ります。そのとき、自分が言ったことを思い出して、「穴があったら入りたい」と恥ずかしくなり、苦しむのです。

しかし、そのように苦しむ人は、その後彼は反省して、怒らなくなる可能性があります。中には暴言を吐いても、当然だと思っている人がいますが、そのような人は救いないと言ってもよいでしょう。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 3偈

3 怒りを滅ぼし安らかに臥す。怒りを滅ぼして悩まない。毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼすことを、聖者らは称賛する。修行僧らよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒りをなくしたら、安眠できます。

怒りをなくしたら、本当に悩むことがなくなります。

怒りは、毒の根とはよく言いました。人は怒ると、アドレナリンが過剰に分泌します。そうすると血圧が上昇し、身体に色々な障害をもたらします。というわけで怒りは本当に毒の根なのです。

人は怒ると唾液が分泌しなくなり、味がよくわからくなります。そのために甘味を害うのです。もちろん怒ると味どころではないというということです。

怒りを滅ぼすと、心が静かになり、心が安定して、物事を正しく見えるようになります。物事を正しく見えるようになると、賢くなります。そのために、聖者らは称賛するのです。