感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 4偈、5偈

4 この世では人間もまた、つねにそのようなものである。知識はもっているかもしれないが、教えを聞くことが無ければ善悪のことがらを識別することができない。

5 眼のある人は燈火によって種々の色(いろ)かたちを見るように、ひとは教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにそのようなものである。」とは、前の4偈で述べられているように、暗闇にみたされた家に入ったいるようなものであるということです。そのために、眼があっても見ることができないのです。

つまり、眼は知識のたとえです。燈火は教えのたとえです。暗闇の中の諸の見事なものは善悪のことがらを識別することです。

善悪はないという境地に至る前に、善悪を識別することは必要なことです。






この記事へのコメント

ノブ
2019年06月05日 22:09
振り返れば、その様な経験を私もして来た。理法を聞いた時に、それが理法であり、知って語られた言葉であると直ぐに解った。それ以前は"真実"にまつわる様々な言説を聴いては自分の見解と比較し、それを理解はすれども何処か不全感を残していた。

以前は、善悪は見えてるつもりでいたし、超えているつもりでいた。
しかしブッダの言葉を聴いた後は、善悪を識別する様になり、何が誤っていて、何が正しいのかを次第に分別する様になっていった。
その上で善の善なるものが現れる事があるのだという求めを持つ様になり、修行と呼び得る遍歴修行が始まった。
真実を求めて以来随分経った気がするが、その意味では私の修行は始まったばかりであり、道の初心者である。
一大事を見逃すことのない、やさしい人である為には、心の邪さを除かねばならない。
修行と言えば、今は専らそれが私の修行なのだろう。身を削るようにでは無く、苦悩から解放される事で、それを達成したい。
石法如来
2019年06月06日 07:29
ノブ様
以前から投稿されたコメントを拝見しておりますが、ゆっくりでも修行がすすまれている様子。
 自らの明知を信じ遍歴修行をすすめて下さい。