感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 15偈

15 内を知らないが外を見ないで、(内と外と)両者について結果を見ない人は、実に音声に誘われる。

(テーラガーター470 内を知らないが、外をも見ないで、あまねく(煩悩に)覆われている愚人___かれは、実に音声に誘われる。 ) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

内と外を理解するのに参考になる心理学の考え方があります。それはジョハリの窓と言われ、次のようなものです。

① 自分も他人も知っている自分の性質(解放)
② 自分は気付いていないが他人は知っている性質(盲点)
③ 他人は知らないが自分は知っている性質(秘密)
④ 自分も他人も知らない性質(未知)

この考え方で言えば、①と②が外であり、③と④は内です。

修行者は①、②、③、④全てを知る必要があるのですが、この偈のように内にも外にも関心のない人は、実に音声に誘われて、生きているのです。それは、煩悩に従って生きているだけで、貪欲や情欲に支配されているのです。




 

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 14偈

14 内を明らかに見ているが、外を見ないで、内のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、テーラガーターにはありません。ですから、ラクンタカ・バッディヤ長老の作ではないということになります。ウダーナヴァルガ独自の偈です。その意図はわかり難いのですが、私の経験から言いますと、衆生の中に、あの人は悟っているのか、この人は悟っているのかと質問してくる人がおられます。そのような人は、内のほうの結果ばかりを気にしているのです。そのような判断を人に聞いてどうするのでしょうか。

衆生のうちは、誰が本当に解脱した人かわかりませんが、その人なりに、その段階で判断して、その人の話を聞き、その人の行動を見て判断するのです。しばらく付き合えば本物かどうかわかります。それも一つの遍歴です。気をつけて遍歴することです。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 13偈

13 内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

(テーラガーター471 内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人___それも音声に誘われる。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈もテーラガーター471とほぼ同一なので、ラクンタカ・バッディヤ長老の作と考えてよいでしょう。

この長老は妄執(渇愛)を根こそぎ抜いているので、内といえばそのことを意味します。ですから、「内を知らない」は、この長老が解脱していることを知らないということです。

「外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人」は、この長老の外観、つまり容姿や音声ばかり見ている、気にしているということです。

このような人は、「それも音声に誘われる。」、すなわち、12偈で述べられているように、貪欲や情欲に支配されているのです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 12偈

12 色(いろ)かたちによって、わたしを測り、また音声によって、わたしを尋ねもとめた人々は、貪欲や情欲に支配されているのであって、(実は)わたくしのことを知らない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、岩波文庫の注によりますと、「テーラガーター」の469と同じものであるということです。また、「テーラガーター」では、この偈はラクンタカ・バッディヤ長老の作となっています。この長老は、極めて背の低い方でありましたが、美し声で他の人々に説法をすると言われています。

このことを知れば、この偈の意味がわかりやすくなります。

「色(いろ)かたちによって、わたしを測り、」は背が低いということで、説法の内容を判断するということです。

「音声によって、わたしを尋ねもとめた人々」は、説法の声が美しいから、説法を聞きにくる人々ということになります。

そのような人々は、この長老の説法の内容を理解していないということです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 11偈

11 博学であって、徳行をたもち、明らかな知慧があり、つねに心が安定し統一している人は、ジャンブー河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。その人を誰が非難し得るだろうか? 

(ダンマパダ229、230 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「ジャンブー河から得られる黄金でつくった金貨」について、岩波文庫の注には次のように、記されています。
「ジャンブー樹の大森林を流れる河の底に産する砂金で、金のうちでは最も高貴なものとされた。その金によってつくった良質の金貨をいう。」

「博学であって、徳行をたもち、明らかな知慧があり、つねに心が安定し統一している人」はもっとも良質な人間であるということです。

そのような人間を誰も非難しません。ダンマパダでは、神々も梵天のそのような人を賞賛すると言っています。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 7偈~10偈

7 在る人が、たとい博学であっても、徳行に専念していないならば、世の人々はかれを徳行の点で非難する。その人は学問は完全に身に具わっているのではない。

8 在る人が、たとい学問は僅かであっても、徳行に専念しているならば、世の人々は、徳行についてのかれを称賛する。その人は学問は完全に身に具わっているのである。

9 もしも在る人が、学問も少なく、また徳行にも専念していないならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを非難する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのではない。

10 もしも在る人が、博学であって、また徳行にもよく専念しているならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを称賛する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

通常の意味では、学問とは、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法である」とされていますが、ここでは、徳行が具わっていなければ、学問があるとは言わないのです。

SRKWブッダの理法に「学識」がありますから、参考にしてください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou080.htm

(以下引用)

【学識】



たとえ、それが自分にではなく他の人に向けて発せられたものであろうと、尊敬されるべき人が発する欠点のない、あるいは欠点のある言説を聞き及んで、それがあたかも自分に向けて語られたものであるかのように真摯に受け止め、その真意を(こころに)理解する人があるならば、かれこそ学識のある人なのであり、かれの学識はつねに増大することになる。

その一方で、尊敬されるべき人が人に向けて発した理法に適う、見事に説かれた、欠点のない言説を、その人自身が(直接に)聞いたにも関わらず、それがあたかも他人事であるかのように思い為し、受け止めず、あるいは曲解し、その真意を理解しない人があるならば、かれは学識において欠けるところがあるのであり、かれの学識は増大することがない。

学識において欠けるところがある人は、世間におけるさまざまなことについて多くの束縛を受け、自分ではそうとは知らずに多くの塵をまき散らす。かれは、世間のしがらみと業(カルマ)とにこころが絡め取られて、束縛を脱するすべを見失い、好んで世間の束縛に浴し、種々のことがらに触れては歓喜の念を起こすのである。そこには、悲哀と不吉なことがつきまとっており、心は何ものかに突き動かされて安まるときがなく、結局は苦悩に満ちた人生を送ることにならざるを得ない。

もし人が、一切の束縛を脱することを願い、苦悩を滅し尽くしたやすらぎの境地に至ることを欲するのであるならば、学識ゆたかな人々につきあうべきである。学識ゆたかな人々は、学識を増大させようとこころから望む人を温かく迎えてくれるからである。人の学識は、そのようにしてこそ増大し、互いにことわりを聞かせてはひとしくニルヴァーナに至ることになるのである。

(以上引用)





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 6偈

6 教えを聞いて、諸のことがらを識別する。教えを聞いて、悪を行なわない。教えを聞いて、ためにならなぬことを避ける。教えを聞いて、束縛の覆いの解きほごされたところ(=不死の所)に至る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「教え」とは、「法の句」です。法の句とは、誰がその言葉を発するかわかりません。気をつけていると心に響く言葉を聞くことがあります。その言葉を聞いて心が変わる時があります。それが法の句です。

法の句を聞いて、諸のことがらを識別できるようになります。

法の句を聞いて、悪を行なわないようになります。

法の句を聞いて、ためにならなぬことを避けるようになります。

法の句を聞いて、束縛の覆いの解きほごされたところ(=ニルヴァーナ)に至ります。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 4偈、5偈

4 この世では人間もまた、つねにそのようなものである。知識はもっているかもしれないが、教えを聞くことが無ければ善悪のことがらを識別することができない。

5 眼のある人は燈火によって種々の色(いろ)かたちを見るように、ひとは教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにそのようなものである。」とは、前の4偈で述べられているように、暗闇にみたされた家に入ったいるようなものであるということです。そのために、眼があっても見ることができないのです。

つまり、眼は知識のたとえです。燈火は教えのたとえです。暗闇の中の諸の見事なものは善悪のことがらを識別することです。

善悪はないという境地に至る前に、善悪を識別することは必要なことです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 2偈、3偈

2 この世でことわりをはっきりと知らない愚かな者どもは、自分たちが不死であるかのごとくに振る舞う。しかし正しい真理をはっきりと知っている人々にとっては、(この世の生存は)病める者にとっての夜のごとくである。

3 よく密閉してあって暗闇(くらやみ)にみたされた家に入ると、そこにある見事な物を、眼のある人でも見ることができないようなものである。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ことわりをはっきりと知らない人間を愚かな者というのです。ことわりの内容はまだ明らかになっていませんが、この章の後のいくつかの偈で明らかになります。

「不死であるかのごとくに振る舞う。」とはどのようなことでしょうか。失敗を繰り返すというような意味と理解してよいでしょう。

「(この世の生存は)病める者にとっての夜のごとくである。」の意味はわかりにくいのですが、3偈で、その意味を説明しています。つまり、眼のある人間でも、暗闇(無明)のために、大切なことがわからないとがわからないということです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 1偈

1 聞いて学ぶことは善い。正しく行うことも善い。また住むべき家のないことも善い。正しいことわりにしたがって出家して遍歴ことも善い。___以上のことは修行者の境地にふさわしいことである。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

聞いて学ぶことは善い。・・・これはこの通りです。

正しく行うことも善い。・・・これもこの通りです。

住むべき家のないことも善い。・・・これは、岩波文庫の注によると、「人と交らぬこと」という意味にも解し得るとの事ですが、どちらも善いとは言えません。ただし、住むべき家がなくても善いとは言えます。

正しいことわりにしたがって出家して遍歴ことも善い。・・・出家しなくても、正しいことわりにしたがって遍歴することは善いことです。