感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 26偈

26 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、ニルヴァーナの近くにある。

                         以上第23章 自己

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「ニルヴァーナの近くにある。」ためには、昨日引用したSRKWブッダの理法「一切皆苦の真実」の結びの言葉、「そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。」とあるように、「人が一切皆苦の真実をまさしく覚知する」ことが必要なのです。

また、「ニルヴァーナの近くにいる。」という言葉は、ダンマパダ373には次のように述べられています。

「明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。」

この偈を以て、「第23章自己」は終わります。明日からは、「第24章広く説く」になります。

*お知らせ
明後日7月2日はサーバのメンテナンスのために、ブログ記事の掲載はできないかもしれません。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 25偈

25 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての苦しみから脱れる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は、「すべての苦しみ」について、SRKWブッダの理法「一切皆苦の真実」の全文を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou031.htm

(以下引用)

【一切皆苦の真実】



世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言いならわす。 ここで、一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、後にそれとまったく同じことを感受しても苦としか認知されないという意味ではない。一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそのままの形で、それそのものがその本当のところは苦に他ならないということである。 実に、錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語るのである。

実のところ、人々にとって苦は苦として認知されることは無く、たとえ正しい認知を生じつつあったとしても結局は苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。 そして、この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用に他ならない。 その結果、人々には迷妄と妄執とがつきまとうことになる。



人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。たとえ、如来が説く「一切皆苦」という言葉を知っていたとしても、その真実を正しく認知し、理解することはできないであろう。その様は、人が錯覚図形を見て、それが錯覚図形なのであると頭では分かっていたとしても、錯覚を生じて見えるという認識の事実そのものを回避することは出来ないようなものであるからである。すなわち、今、この文章を読んで一切皆苦の錯綜したありさまについて心から納得した人であっても、一切皆苦の真実を正しく理解することは難しい。それほど、一切皆苦の真実は、人々の理解するところから隔たっているのである。

しかしながら、ここなる人が聡明であって、一切皆苦の真実を知ろうと熱望し、次のように観じるならば、その観の完成に伴ってついには一切皆苦の真実を知ることができると期待され得る。

 『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

すなわち、お金持ちのあの人も、身分の高いあの人も、才能豊かなあの人も、経験豊かなあの人も、意地悪なあの人も、狡猾なあの人も、傲慢なあの人も、自由奔放なあの人も、脳天気なあの人も、若い力がみなぎるあの人も、美とセンスにあふれるあの人も、いかにも健康そうなあの人も..、その他のいかなる人であっても、この世には本当に楽しんでいる人、本当に喜んでいる人など誰一人としていないのであると観じ、その真実を見極めることが苦の覚知を促すのである。 そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。

(以上引用)





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 24偈

24 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、すべての悪い存在領域を捨て去る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

悪い存在領域とは、畜生、修羅、餓鬼、地獄です。ちなみに、善い存在領域とは人間、天界になります。また、これらの輪廻の世界を超えた世界(ニルヴァーナ)があることを知るべきです。

この世では自己こそ自分の主であるのですから、最高の境地、最高の幸せであるニルヴァーナを目指すべきです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 23偈

23 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、いかなる束縛をも断ち切る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この世では自己こそ自分の主であるのに、衆生はいろいろな思いに束縛されています。そのために自由に、生き生きと生きることができないのです。その最大の理由は束縛を束縛と思っていないところにあります。

ここにに参考になる偈があります。

「ダンマパダ345、346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、___それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩(ゆる)く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。」


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 22偈

22 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、悩みのうちにあって悩まない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「悩みのうちにあって悩まない。」とはどういう意味でしょうか?

それは、悩みがあっても、それは自分にとって為になることだと思うことです。

例えば、病気になれば、静かに休むことです。自分の生活スタイルに何か問題があったか考えることです。今自分の人生にとって必要なことは何か考えることです。

また、失恋して悩んでいても、その失恋はきっとあなたにとって意味があることなのです。自分が変わるチャンスです。

お金がなくて悩んでいても、これにも意味があると考えてください。いろいろな発見があるはずです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 21偈

21 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、親族のあいだにあって輝く。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「この世では自己こそ自分の主である。」・・・今回の偈の主張もこのことです。

「親族のあいだにあって輝く。」・・・自分の身をよくととのえれば、すすぐに親族のあいだにあって輝く場合もあれば、すぐに輝かなくてもいずれ輝くことになります。身近にいる人々は身近にいる人の価値に気づかないものです。







感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 20偈

20 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、明らかな知慧を獲得する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を理解する上で参考になるダンマパダの偈を二つ引用します。

282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。

372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

自分の身をよくととのえるとは、心を統一すること、精神の安定統一をすることです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 17偈~19偈

17 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、天の世界に生れる。

18 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、永く天の世界にあって楽しむ。

19 (訳文は前の詩と同じ)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

19は、(訳文は前の詩と同じ)とありますのは、注によりますと、前の偈の「天の世界」の部分が単数に変わっただけなので、日本語に訳すと、同じになると述べられています。

これらの偈の賢者は、自分の身をよくととのえたのでしょうが、正法を知らなっかた為に、解脱することはできず、天界に留まったのでしょう。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 12偈~16偈

12 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、(自分の)目的を達成する。)

13 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、徳行を達成する。

14 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、名声を得る。

15 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、名誉を得る。

16 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、いろいろの幸(しあわせ)を得る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
自分の人生の主人は自分なのです。すべて自分で決めることができるのです。そのことをはっきりと自覚してください。

ですから、そのことを知る賢者は自分をととのえて、正しく生きるのです。

そして、(自分の)目的を達成します。徳行を達成します。名声を得ることもあります。名誉を得ることもあります。いろいろの幸(しあわせ)を得るのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 11偈

11 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身を自己をよくととのえて、自分の主となり得る。 

(ダンマパダ160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?」という言葉は、自分の人生は自分で決めて生きていることを教えているのです。

昨日の例の続きで言えば、親に職業を強制されてた場合でも、結局は自分がそれを受け入れたのです。断固として、それを拒否することもできたはずです。

ですから、正しく選択して、正しく生きるためには、自分の身を自己をよくととのえる必要があるのです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 10偈

10 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ。

(ダンマパダ166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈で言われている状況を具体的に考えると、親が子に家業を継ぐように言われた時、どうするかという問題です。

子供には子供の目的があります。子供の望む仕事がある場合は子供の希望に沿って解決することが望ましいでしょう。親も子供の人生は子供のものであると考えるべきなのです。

しかし、子供も自分の最高の目的を知った時、それは最高にやさしい人間になることですが、それを知ったならば、どんな職業に就くかは大きな問題にはなりません。どんな職業を選択しても、やさしい人間にはなれるのです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 6偈~9偈

6 先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。

7 先ず自己を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。賢明な人は煩わされて悩むひとが無いであろうから。 

8 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしは常にわが身をよくととのえている。自分というものは、まことに制し難いものである。

9 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしはつねにわが身をよくととのえている。賢者は自分の身をととのえているからである。

(ダンマパダ158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。)

(ダンマパダ159 他人に教えるとおりに、自分で行なえ___。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

6偈から9偈は同一の趣旨なので、まとめて掲載しました。

「先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。」ということを言いたいのです。

ダンマパダ158、159の解説を以前、次のアドレスのブログ記事で書きました。
https://76263383.at.webry.info/201002/article_28.html
https://76263383.at.webry.info/201003/article_1.html

その冒頭は次の通りです。
(以下引用)
「けっこう、人間は教えるのが好きです。教えて下さいと言わないのに教えようとします。そして嫌われるのです。教えられる人はありがた迷惑なのです。私もその傾向があるのです。このブログを書いているのもこの傾向の表れかもしれません。出家はお釈迦さまの教えを人々に伝えるという仕事があるので行っているのですが、教えたいという気持ちについては注意が必要です。相手が受け入れたくないのに、いくら教えようとしても無駄な努力ですし、それこそ迷惑なのです。

ではなぜ、そんなに教えたいのでしょうか?(一部には本当に教えるのが嫌いな人もいますが、今回はその話しはおいておきます。)私は自分を認めてもらいたいという気持ちが、教えたいの第一理由だと思います。次は相手に対する優越感を持ちたいという理由があるでしょう。つまり、自分という存在は、相手に認めてもらわなければ、落ちつかなほどの危うい存在なのでしょう。なんとか自分の存在意義を感じようとしているのです。そのことが、自覚できれば、無理に教えようとなどしないはずです。親が自分の子供を教えようとするのは、自分の子供と自分と同一化しているので、自己愛の一つの形態でしょう。
(以上引用)




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 4偈、5偈

4、5 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、___このように明らかな知慧ある修行者の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神々も、なし得ない。ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも、悪魔も、梵天もなし得ない。

(ダンマパダ104、105 自己にうち克(か)つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、___このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

勝つといえば、他人に勝つことを考えると思いますが、仏教では他人に勝つということは問題にしません。勝つといえば、自分に克つことです。

しかも、勝つはの通常に勝つとは異なります。相手に勝つではありません。対立をなくすことです。他者との対立も、自分の中の対立(葛藤)もなくなることです。それを仏教では勝つというのです。

対立のなくなった状態の勝利は、神々も、ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも、悪魔も、梵天の敗北に転ずることはできないのです。

ダンマパダのこれらの偈については、過去に次のブログ記事で述べました。少し参考になるかもしれません。
https://76263383.at.webry.info/200903/article_17.html
https://76263383.at.webry.info/201001/article_21.html



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 3偈

3 戦場において百万人に勝つとも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に不敗の勝利者である。 

(ダンマパダ103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ103について、以前次のブログ記事で解説しました。
・戦場で百万人に勝つよりも人の己に打ちがたい
https://76263383.at.webry.info/200903/article_17.html

・唯一自己に打ち克てるかれこそ真の勝者なり
https://76263383.at.webry.info/201001/article_20.html


今、改めて思うことは、自分の心を自分で変えることは、簡単そうに見えて実にむづかしく、それができるためには、功徳を積み、因縁により、善友と会い、法の句を聞くことだということです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 2偈

2 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、自分ひとりを楽しめ。つねにひとりで林の中の中に住め。 

(ダンマパダ305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日は二つの大切なことを書きました。一つは、修行者に仕え尊敬することでした。これは、他人から学ぶこということでした。もう一つは、「人々からかくれて独りで坐し、心を静めること」でした。

今回の偈は、この後者に関するものです。ひとりで修行しなさいということです。その際、注意すべきことは、なおざりにならないことと、楽しむことです。この二点も大切です。

一人で修行すれば、人の心は移ろいやすいので、頑張る時も怠ける時もあります。それでも自分を制して、修行に励む精進が必要なのです。しかし、いわゆる精進というだけでは修行は続きません。修行の中に楽しみを見出すことです。あるいは、楽しく修行する工夫をすることです。

また、一人で修行することの意味は、他人に依存しないことにあります。人はすぐに他人に依存しようとする傾向があります。仲間がいると、それに安心してしまうのです。しかし、仲間の中にいることに安住すると、覚り境地には到達できません。

SRKWブッダの理法に「孤独」があります。以下に引用しますから、参考にしてください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou335.htm

(以下引用)
【孤独】
 修行者が孤独であるべき――孤独の境地に励むべき――であると言うのは、修行はすべて自分自身のことがらであり他者との関わりに よって修行が進むなどということがまったく無いというほどの意。したがって、修行者が孤独であるべきというのは世人が孤独であることとは意味合いが違う。 ところで、もちろん覚りの機縁は他者との縁によるものであるが、これは世間の人の関わりとは違うものとなる。すなわち、修行者は孤独であってはならず世間 の人々と一定の関わりを持つべきである。しかし、そのようでありながら修行者は孤独の境地に励むべきであると説かれるのである。

 また、ブッダの孤独と言うのは、ブッダが孤独であるという意味では無い。これは、「もし世界に自分一人だけしか存在していないとするならば、たとえ衆生であっても一切の苦悩は終滅する(苦悩がそもそも 生起しない)」ことと同義のことがらとしてのことである。この意味においてブッダは孤独であり、しかしそれゆえに一切の苦悩から解脱していると知られるのであ る。
(以上引用)


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 1偈

1 よく説かれたことを実行せよ。___修行者に仕え尊敬すること、人々からかくれて独りで坐し、心を静めることを___。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「よく説かれたことを実行せよ。」・・・ブッダの教えを実行しなさいということです。

その内容は二つあります。一つは「修行者に仕え尊敬すること」です。ここで問題ですが、誰が修行者なのでしょうか。実は、人間は誰もが修行者かもしれません。

「宮本武蔵」という小説を書いた吉川英治という作家がいました。彼は「自分以外は全て師」ということを言っていました。男も女も子供も老人も、誰からも学ぶことがあるということです。この意味からは、どんな人間も仕え、尊敬することです。

もう一つは「人々からかくれて独りで坐し、心を静めること」です。人との関係は上に述べたように大切な事ですが、自分自身を見つめることが必要なことです。自分の心の動きを観察するのです。そのときの心を評価する必要はありません。むしろ何も評価せずに観察する方が良いのです。人々からかくれて独り坐さなくとも、心を静めことができれば、それで良いのですが、はじめは人からかくれて独り坐す方が、行い易いでしょう。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 19偈

19 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、そのとき、かれらの説くことをことばでも実行する。かれは忍耐と柔和と瞑想とのうちに安定し、学問と知能との真髄にも達したのである。

(スッタニパータ330 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、そのとき、かれの説くことをことばでも、こころでも、行いでも、最上である。かれは平安と柔和と瞑想(めいそう)とのうちに安定し、学問と智慧との真髄に達したのである。)

                           以上第22章 学問

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日掲載した18偈では、聖者の説きたもうた真理を理解することの重要性が述べられていました。今回の偈では、さらに進んでそれを喜ぶ人々について述べられています。そのような人々は、それを実行するのです。

19偈では具体的に書いてありませんが、「ことばでも」ということは、心でも、行いでもということでしょう。

「忍耐と柔和と瞑想とのうちに安定し」とは、一つのことです。思いやりがあり、優しくて、落ち着いているのです。

「学問と知能との真髄にも達した」の「学問」は、すでに説かれているように単なる知識ではなく徳行が具わっているのです。SRKWブッダの理法「学識」と考えてよいでしょう。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou080.htm

「知能」とは、スッタニパータ330にあるように、智慧と考えてよいでしょう。また、「真髄」については、スッタニパータ330の注に「精、精髄、中核、本質の意。」と記されています。真髄に達して、解脱に至るのです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 18偈

18 みごとに説かれたことばは、それを聞いて理解すれば精となる。聞いたこと、識(し)ったことは、心にじっととどめておくと精となる。しかし人が性急であって怠けているならば、かれの知識も学問も大きな目的を達成することはできない。

(スッタニパータ329 みごとに説かれたことばは、それを聞いて理解すれば精となる。聞きかつ
知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには智慧も学識も増大することがない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「みごとに説かれたことば」とは、ブッダの説かれた理法です。それを、ブッダが説かれたのだとただ感激して聞いている(あるいは読む)だけでは意味がありません。それを理解する必要があるのです。

しかし、一度聞いただけで理解できるとは限りません。理解したいという思いがあるなならば、「心にじっととどめておく」必要があります。あるいは、繰り返し聞くことです。そうするとだんだん解ってきます。

それが「精となる」のです。「精となる」について、スッタニパータ329の注によれば、「目的(意義)が成就するという意味に解しているようである」と記されています。つまり、ブッダのことばが理解できれば、目的が成就されるのです。目的とは解脱です。

それに対して、一度聞いて解らないと、理解しようとせず、怠けてしまえば目的は達成されません。

「読書百遍意自ずから通ず」とはその通りです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 17偈

17 耳で多くのことを聞き、眼で多くのことを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて信じてはならない。

(テーラガーター500 耳であらゆることを聞き、眼であらゆることを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて斥けてはならない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
 
この17偈とテーラガーター500とは、一見すると、逆のことを言っているようにも思われますが、実は同じことを言っているのです。

思慮ある人は、耳で多くのことを聞き、教え(法)に従って、信じるべきものは信じ、斥ぞけるものは斥けるのです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 16偈

16 内をも明らかに知り、外をもはっきり見て、よりどころにとらわれないで明らかに知る人は、実に、音声に誘われることがない。

(テーラガーター472 内をも明らかに知り、外をもはっきり見て、覆われることなしに見た人、___かれは音声に誘われることがない。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
人間は、自分の内面を観ることは不得意です。他人をあれこれ評価しますが、なぜそのように評価するのかについて気づいていない場合が多いのです。他人を評価する時は、自分に評価基準があるのです。特に、自分の無意識の評価基準には注意が必要です。それに自分が支配されているからです。

そのことに気づかせてくれるのが、善友の法の句なのです。

功徳を積んだ修行者は、善友の法の句を聞いて、自分の内を明らかに知り、そのことにより、とらわれない心で、外をはっきりと見ることができるのです。そのような人は、音声に誘われることがなく、貪欲や情欲に支配されることがないのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 15偈

15 内を知らないが外を見ないで、(内と外と)両者について結果を見ない人は、実に音声に誘われる。

(テーラガーター470 内を知らないが、外をも見ないで、あまねく(煩悩に)覆われている愚人___かれは、実に音声に誘われる。 ) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

内と外を理解するのに参考になる心理学の考え方があります。それはジョハリの窓と言われ、次のようなものです。

① 自分も他人も知っている自分の性質(解放)
② 自分は気付いていないが他人は知っている性質(盲点)
③ 他人は知らないが自分は知っている性質(秘密)
④ 自分も他人も知らない性質(未知)

この考え方で言えば、①と②が外であり、③と④は内です。

修行者は①、②、③、④全てを知る必要があるのですが、この偈のように内にも外にも関心のない人は、実に音声に誘われて、生きているのです。それは、煩悩に従って生きているだけで、貪欲や情欲に支配されているのです。




 

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 14偈

14 内を明らかに見ているが、外を見ないで、内のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、テーラガーターにはありません。ですから、ラクンタカ・バッディヤ長老の作ではないということになります。ウダーナヴァルガ独自の偈です。その意図はわかり難いのですが、私の経験から言いますと、衆生の中に、あの人は悟っているのか、この人は悟っているのかと質問してくる人がおられます。そのような人は、内のほうの結果ばかりを気にしているのです。そのような判断を人に聞いてどうするのでしょうか。

衆生のうちは、誰が本当に解脱した人かわかりませんが、その人なりに、その段階で判断して、その人の話を聞き、その人の行動を見て判断するのです。しばらく付き合えば本物かどうかわかります。それも一つの遍歴です。気をつけて遍歴することです。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 13偈

13 内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人は、実に音声に誘われる。

(テーラガーター471 内を知らないが、外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人___それも音声に誘われる。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈もテーラガーター471とほぼ同一なので、ラクンタカ・バッディヤ長老の作と考えてよいでしょう。

この長老は妄執(渇愛)を根こそぎ抜いているので、内といえばそのことを意味します。ですから、「内を知らない」は、この長老が解脱していることを知らないということです。

「外をはっきりと見て、外のほうの結果ばかりを見ている人」は、この長老の外観、つまり容姿や音声ばかり見ている、気にしているということです。

このような人は、「それも音声に誘われる。」、すなわち、12偈で述べられているように、貪欲や情欲に支配されているのです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 12偈

12 色(いろ)かたちによって、わたしを測り、また音声によって、わたしを尋ねもとめた人々は、貪欲や情欲に支配されているのであって、(実は)わたくしのことを知らない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、岩波文庫の注によりますと、「テーラガーター」の469と同じものであるということです。また、「テーラガーター」では、この偈はラクンタカ・バッディヤ長老の作となっています。この長老は、極めて背の低い方でありましたが、美し声で他の人々に説法をすると言われています。

このことを知れば、この偈の意味がわかりやすくなります。

「色(いろ)かたちによって、わたしを測り、」は背が低いということで、説法の内容を判断するということです。

「音声によって、わたしを尋ねもとめた人々」は、説法の声が美しいから、説法を聞きにくる人々ということになります。

そのような人々は、この長老の説法の内容を理解していないということです。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 11偈

11 博学であって、徳行をたもち、明らかな知慧があり、つねに心が安定し統一している人は、ジャンブー河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。その人を誰が非難し得るだろうか? 

(ダンマパダ229、230 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「ジャンブー河から得られる黄金でつくった金貨」について、岩波文庫の注には次のように、記されています。
「ジャンブー樹の大森林を流れる河の底に産する砂金で、金のうちでは最も高貴なものとされた。その金によってつくった良質の金貨をいう。」

「博学であって、徳行をたもち、明らかな知慧があり、つねに心が安定し統一している人」はもっとも良質な人間であるということです。

そのような人間を誰も非難しません。ダンマパダでは、神々も梵天のそのような人を賞賛すると言っています。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 7偈~10偈

7 在る人が、たとい博学であっても、徳行に専念していないならば、世の人々はかれを徳行の点で非難する。その人は学問は完全に身に具わっているのではない。

8 在る人が、たとい学問は僅かであっても、徳行に専念しているならば、世の人々は、徳行についてのかれを称賛する。その人は学問は完全に身に具わっているのである。

9 もしも在る人が、学問も少なく、また徳行にも専念していないならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを非難する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのではない。

10 もしも在る人が、博学であって、また徳行にもよく専念しているならば、世の人々は(学問と徳行と)両方の点でかれを称賛する。その人の誓戒は完全に身に具わっているのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

通常の意味では、学問とは、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法である」とされていますが、ここでは、徳行が具わっていなければ、学問があるとは言わないのです。

SRKWブッダの理法に「学識」がありますから、参考にしてください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou080.htm

(以下引用)

【学識】



たとえ、それが自分にではなく他の人に向けて発せられたものであろうと、尊敬されるべき人が発する欠点のない、あるいは欠点のある言説を聞き及んで、それがあたかも自分に向けて語られたものであるかのように真摯に受け止め、その真意を(こころに)理解する人があるならば、かれこそ学識のある人なのであり、かれの学識はつねに増大することになる。

その一方で、尊敬されるべき人が人に向けて発した理法に適う、見事に説かれた、欠点のない言説を、その人自身が(直接に)聞いたにも関わらず、それがあたかも他人事であるかのように思い為し、受け止めず、あるいは曲解し、その真意を理解しない人があるならば、かれは学識において欠けるところがあるのであり、かれの学識は増大することがない。

学識において欠けるところがある人は、世間におけるさまざまなことについて多くの束縛を受け、自分ではそうとは知らずに多くの塵をまき散らす。かれは、世間のしがらみと業(カルマ)とにこころが絡め取られて、束縛を脱するすべを見失い、好んで世間の束縛に浴し、種々のことがらに触れては歓喜の念を起こすのである。そこには、悲哀と不吉なことがつきまとっており、心は何ものかに突き動かされて安まるときがなく、結局は苦悩に満ちた人生を送ることにならざるを得ない。

もし人が、一切の束縛を脱することを願い、苦悩を滅し尽くしたやすらぎの境地に至ることを欲するのであるならば、学識ゆたかな人々につきあうべきである。学識ゆたかな人々は、学識を増大させようとこころから望む人を温かく迎えてくれるからである。人の学識は、そのようにしてこそ増大し、互いにことわりを聞かせてはひとしくニルヴァーナに至ることになるのである。

(以上引用)





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 6偈

6 教えを聞いて、諸のことがらを識別する。教えを聞いて、悪を行なわない。教えを聞いて、ためにならなぬことを避ける。教えを聞いて、束縛の覆いの解きほごされたところ(=不死の所)に至る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「教え」とは、「法の句」です。法の句とは、誰がその言葉を発するかわかりません。気をつけていると心に響く言葉を聞くことがあります。その言葉を聞いて心が変わる時があります。それが法の句です。

法の句を聞いて、諸のことがらを識別できるようになります。

法の句を聞いて、悪を行なわないようになります。

法の句を聞いて、ためにならなぬことを避けるようになります。

法の句を聞いて、束縛の覆いの解きほごされたところ(=ニルヴァーナ)に至ります。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 4偈、5偈

4 この世では人間もまた、つねにそのようなものである。知識はもっているかもしれないが、教えを聞くことが無ければ善悪のことがらを識別することができない。

5 眼のある人は燈火によって種々の色(いろ)かたちを見るように、ひとは教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにそのようなものである。」とは、前の4偈で述べられているように、暗闇にみたされた家に入ったいるようなものであるということです。そのために、眼があっても見ることができないのです。

つまり、眼は知識のたとえです。燈火は教えのたとえです。暗闇の中の諸の見事なものは善悪のことがらを識別することです。

善悪はないという境地に至る前に、善悪を識別することは必要なことです。






感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 2偈、3偈

2 この世でことわりをはっきりと知らない愚かな者どもは、自分たちが不死であるかのごとくに振る舞う。しかし正しい真理をはっきりと知っている人々にとっては、(この世の生存は)病める者にとっての夜のごとくである。

3 よく密閉してあって暗闇(くらやみ)にみたされた家に入ると、そこにある見事な物を、眼のある人でも見ることができないようなものである。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ことわりをはっきりと知らない人間を愚かな者というのです。ことわりの内容はまだ明らかになっていませんが、この章の後のいくつかの偈で明らかになります。

「不死であるかのごとくに振る舞う。」とはどのようなことでしょうか。失敗を繰り返すというような意味と理解してよいでしょう。

「(この世の生存は)病める者にとっての夜のごとくである。」の意味はわかりにくいのですが、3偈で、その意味を説明しています。つまり、眼のある人間でも、暗闇(無明)のために、大切なことがわからないとがわからないということです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第22章 学問 1偈

1 聞いて学ぶことは善い。正しく行うことも善い。また住むべき家のないことも善い。正しいことわりにしたがって出家して遍歴ことも善い。___以上のことは修行者の境地にふさわしいことである。
    
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

聞いて学ぶことは善い。・・・これはこの通りです。

正しく行うことも善い。・・・これもこの通りです。

住むべき家のないことも善い。・・・これは、岩波文庫の注によると、「人と交らぬこと」という意味にも解し得るとの事ですが、どちらも善いとは言えません。ただし、住むべき家がなくても善いとは言えます。

正しいことわりにしたがって出家して遍歴ことも善い。・・・出家しなくても、正しいことわりにしたがって遍歴することは善いことです。