感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第23章 自己 6偈~9偈

6 先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。

7 先ず自己を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。賢明な人は煩わされて悩むひとが無いであろうから。 

8 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしは常にわが身をよくととのえている。自分というものは、まことに制し難いものである。

9 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしはつねにわが身をよくととのえている。賢者は自分の身をととのえているからである。

(ダンマパダ158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。)

(ダンマパダ159 他人に教えるとおりに、自分で行なえ___。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

6偈から9偈は同一の趣旨なので、まとめて掲載しました。

「先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。」ということを言いたいのです。

ダンマパダ158、159の解説を以前、次のアドレスのブログ記事で書きました。
https://76263383.at.webry.info/201002/article_28.html
https://76263383.at.webry.info/201003/article_1.html

その冒頭は次の通りです。
(以下引用)
「けっこう、人間は教えるのが好きです。教えて下さいと言わないのに教えようとします。そして嫌われるのです。教えられる人はありがた迷惑なのです。私もその傾向があるのです。このブログを書いているのもこの傾向の表れかもしれません。出家はお釈迦さまの教えを人々に伝えるという仕事があるので行っているのですが、教えたいという気持ちについては注意が必要です。相手が受け入れたくないのに、いくら教えようとしても無駄な努力ですし、それこそ迷惑なのです。

ではなぜ、そんなに教えたいのでしょうか?(一部には本当に教えるのが嫌いな人もいますが、今回はその話しはおいておきます。)私は自分を認めてもらいたいという気持ちが、教えたいの第一理由だと思います。次は相手に対する優越感を持ちたいという理由があるでしょう。つまり、自分という存在は、相手に認めてもらわなければ、落ちつかなほどの危うい存在なのでしょう。なんとか自分の存在意義を感じようとしているのです。そのことが、自覚できれば、無理に教えようとなどしないはずです。親が自分の子供を教えようとするのは、自分の子供と自分と同一化しているので、自己愛の一つの形態でしょう。
(以上引用)