感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 16偈

16 百年を満たすほどのあいだ、林の中で(祭祀の)火の神につかえるのと、また己(おの)が身を修養した一人の修行者を一瞬間でも供養するのとでは、その修行者を供養するほうがすぐれている。百年祭祀(まつり)を営むのは、そうではない。

(ダンマパダ107 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を皆さんはどのように読みますか?

目の前の困っている人を助けることと、目に見えない架空の火の神を助けるのとどちらがすぐれているのかと考えました。

火の神は、神様ですから助けなくとの大丈夫です。

この記事へのコメント

ノブ
2019年07月16日 21:10
火は人間にとって大変重要なものであるために、それが信仰の対象になるのは分かる気がします。暖をとり、調理をし、闇を照らす光となり。一方で広がれば森をも焼いてしまう恐ろしいものでもありますから、この点でも火が信仰の対象となり、供物を要請する理由となっていると思います。

一方で、自己を修養した修行者と言うのは、物理的には何も返してくれませんし、功利的な見返りも何もありませんが、供養した人に対しては完全な(過不足ない、純粋な)満足を与えてくれる存在であると思います。彼はその供養した人の胸中に全き燈を点けたのであり、説かずして道を示したのであるから、尊いと言われるのではないでしょうか。

自己を修養しているとは、供養を我執もって受け損ねず、愛執もって受け過ぎないことを言うのではないでしょうか。

即ち我執と愛執を離れて供養を受けるに相応しい人、応供ともなる人を瞬時にでも供養することは、百年間、火で闇夜を照らし続けるよりも、不滅の燈を得られると言う点で、また火を熾すように時間のかかることが無いと言う点で、そして、物理的な火の様なある種の危険が無い光であると言う点で、最良に優れているのだと思います。