11 塵(ちり)汚れのない(無垢の)境地を見ないで百年生きるよりも、塵(ちり)汚れのない(無垢の)境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
12 塵(ちり)汚れを離れた境地を見ないで百年生きるよりも、塵(ちり)汚れを離れた境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
「塵(ちり)汚れのない(無垢の)境地」と「塵(ちり)汚れを離れた境地」とは同じ趣旨ですから、まとめて掲載しました。
「境地」の原文は「句」の意味もあるようですので、「塵(ちり)汚れのない(無垢の)句」或いは「塵(ちり)汚れを離れた句」とも考えてください。その時は、「見る」とは「聞く」となります。またその意味は「法の句」になるでしょう。
10 没落することのない境地を見ないで百年生きるよりも、没落することのない境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
スッタニパータの第1章6は「破滅」という経であります。「破滅」は「没落」とも訳せる言葉ですので、参考のために、その始めの2偈を引用します。以前この経について解説しましたので、興味のある方はお読みください。
https://76263383.at.webry.info/201604/article_17.html91.
「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。
破滅への門は何ですか?
師にそれを聞こうとして
われわれはここに来たのですが、──。」
92.
(師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、
破滅を識別することも易い。
理法を愛する人は栄え、
理法を嫌う人は敗れる。」
この経では、以下11項目の具体的な事柄で破滅(没落)についてのべています。
すなわち、「没落することのない境地」とは、理法を愛することをやめない境地です。
9 不動の境地を見ないで百年生きるよりも、不動の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
岩波文庫の注の概略は、「不動の境地」について、「無動句」「無動道」の訳もあるが、チベット訳に従って「不動の境地」と訳したであります。
ここで注目すべきは、「無動句」です。「無動句」とは、「法の句」のことです。
人は法の句を聞き、法の句として受け止めた時、発心或いは解脱するからです。それならば、法の句を聞かないで百年生きるよりも、法の句を聞いて一日生きることのほうがすぐれているのです。
8 汚れが尽きてなくなるのを見ないで百年生きるよりも、(修行によって)汚れが尽きてなくなるのを見て一日生きることのほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
今回コメントしたいことは偈そのものよりは、その訳についてであります。訳者はカッコで(修行によって)と本文を補っています。これは訳者の親切心からでありましょうが、これはブッダの意図に反するものです。
汚れが尽きてなくなるのは、言うまでもなく、心の汚れが尽きてなくなることであり、解脱することでありますが、これは修行によって起こるのではありません。その点、多くの仏教を学ぶ人々は誤解しているのです。
心の汚れが尽きてなくなること、解脱することは一大事の因縁によるものだと知るべきです。
勿論、正しい修行が、一大事因縁の縁になることはまちがいありませんが、その点を誤解すると、修行すれば、悟れると誤解するのです。
7 苦痛が尽きてなくなるのを見ないで百年生きるよりも、苦痛が尽きてなくなるのを見て一日生きることのほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
衆生は苦痛が尽きてなくなった状態を知りませんから、「苦痛が尽きてなくなるのを見て一日生きることのほうがすぐれている。」ことを理解できないのです。
苦痛が尽きてなくなった状態とは、心の傷がすべてなくなった状態です。心の傷とは、心のこだわりです。そのようなこだわりは無意識状態ですから、注意して観察する必要があります。
6 物事(ものごと)が起(おこ)りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物(ものごと)が起こりまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
(ダンマパダ113 物事(ものごと)が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。)
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
「物事(ものごと)が起(おこ)りまた消え失せることわり」には、二通りの解釈がなりまちます。
一つは、物事は発生すれば必ず消滅するものであるということです。それを諸行無常と言います。
もう一つは、物事の形は変わるが、その本質は何もかわらないということです。それを不生不滅といいます。
どちらにしても、物事に執著することなく、物事の変化に嘆き悲しむことなく、心静かに、明るく楽しく生きることがすぐれた生き方です。
5 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている。
(ダンマパダ112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。)
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
この偈も人生の目的を問うものです。人生は永く生きることが目的ではなく、善く生きることが目的であります。
善く生きるとは、どのように生きることなのか? 怠りなまけて、気力もなく生きることは、間違いなく善く生きる事ではありません。
この偈は、「しっかりとつとめ励む」ことは、善く生きることだと述べているのです。
4 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、つねに明らかな知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
(ダンマパダ111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。)
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
この偈も人生の目的を問うものです。人生は永く生きることが目的であれば、一日生きるよりも百年生きる方がすぐれているのでありましょうが、そうではないのです。
いかに生きることが大切なのです。愚かに迷い、心の乱れているよりは、明らかに、常に明らかな知慧あり思い静かに生きることがすぐれているのです。
3 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、つねに清らかな徳行のある人が一日生きるほうがすぐれている。
(ダンマパダ110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。)
*法津如来のコメント
この偈は人生の目的を問うものであります。人生は長く生きるためにかるのか? それならば、素行が悪く、心が乱れていて生きても、長く生きるほうがすぐれているかもしれません。
しかし、そうではなくて人生は清らかに生きる為にあるのです。ですから、たとえ一日でも清らかに生きるならば、そちらがすぐれているのです。
そればかりではなく、素行が悪く心が乱れていて百年生きた者は死後、地獄に行くでしょうし、つねに清らかな徳行のある人は死後、天界に行くか、人間に生まれ変わるでしょう。どちらがすぐれているか明らかでしょう。
2 ことわりにかなわぬ語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる、ことわりにかなったことばを一つ聞くほうがすぐれている。
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
昨日は、サーバーのメンテナンスのため、ブログ記事を掲載できませんでした。
さて、この偈は、一昨日掲載した偈の、「無益な語句」が「ことわりにかなわぬ語句」に代わり、「有益なことば」が「ことわりにかなったことば」に代わったものです。
大差はないでしょうが、人により心に感じるインパクは違うでしょう。つまり利益があるかないかににインパクを感じる人と道理があるかないかにインパクトを感じる人の違いです。
1 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる有益なことばを一つ聞くほうがすぐれている。
(ダンマパダ102 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。)
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
*法津如来のコメント
第24章のテーマは、「広く説く」ですから、説法する人に対する訓戒のようなものだと思われます。しかし、ここでは「無益な語句よりなる詩を百もとなえる」これは説法することでしょう。もっとも、修行として「詩を百もとなえる」ということもあるでしょう。その時も無益な詩では意味がありません。
すぐれていることは、心の静まる有益なことばを一つ聞くことなのです。
なぜすぐれているのでしょうか? その時、その因縁により、人は解脱するからです。