感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20偈

20 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、戒しめを信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「戒しめ」とは何かを知るために、SRKWブッダの理法「戒律」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou051.htm

(以下引用)
【戒律】


戒律とは、すでに覚りの境地に至った人ならば、そのように自らを戒め、そのように自らを律するであろうという行動の自律規範を広く世間に明らかにしたものである。
『戒』は、覚りの境地に至った人が、覚りの境地に至ったその瞬間から皆そのようにしか行動しなくなるということを列挙したものであり、世俗の行動様式、あるいは個人的な好悪、善悪、および世間的な道徳にもとづく行動規範とは一切無関係に、覚者としての根元的な自律規範に照らして自ら世に現前せしめるところの戒めを指す。これを<具足戒>とも名づけ、覚りの境地に至った人は皆、それを等しく具有し、そのようにしか行動できなくなるそれを指していうのである。

また、『律』は、覚りの境地に至った人が、修行集団生活(サンガ)および一般社会生活に関わるときに敢えて自ら律すべき行動規範を列挙したものである。

すなわち、戒律とは、仏弟子がとるべき行動の原理・原則にあたるものである。

〔行動原理〕
「いつ」「どこで」「誰が」行っても所定の効果,現象,結果を現出するもので、現象世界の本質的働きから来るもの。好む好まざるにかかわらず、誰でも従わざるを得ないもの。また、自分自身が後悔しないためにもそれに従って行動すべきそれ。これが、行動原理である。

〔行動原則〕
人が世界においてよりよく行動するために必要な準原理であって、現象世界の本質として本来的・根元的に定まっているものではないが、皆がこれに等しく従うことによって、互いに安全に、安心して、都合良く行動できる便宜上の規範となるもの。あくまでも、人間の公的な都合で決めた便宜上の約束事。なお、これは閉じられた社会集団のなかにおいてどのようにでも決められる性質のものであるため、国や文化の違いによって具体的な内容に異なる点を生じる場合がある。これが、行動原則である。

ところで、原理・原則の大事なところは、それらに反した行為はその時点で既にダメであるということである。なぜならば、原理に反すれば命を失うかあるいは命を縮めることが必定であり、また原則に反すれば罪に問われるからである。いずれにせよ、行き着く先は破滅である。すなわち、原理・原則とは人が後悔しないためにとるべき行動のバロメータなのである。なお、バロメータとは、行動の善し悪しを前もって分別するための基準ではなく、行動の妥当性を事後において本人が納得するために役立つ尺度を予め与えるもののことである。例えば、世間的にも、「お酒がいつでも美味しく飲めることは心身の健康を確認するバロメータだ」などと言われる。その意味するところは、もしあるときにお酒を飲んでそれが美味しくないと感じることがあったとするならば、そのときはすでに健康を大きく害しているのであると考えられ、それは健康な生活を営む上で本来あってはならないことだと言うことである。つまり、お酒が好きな人にとって、お酒はいつでも美味しく飲めなくてはいけないことなのであり、そうであることがその人が健康であることを裏付けているのである。



したがって、いつ何どき、それを調べても、常に「良」と判定されるべきものがバロメータに他ならない。したがって、もし現在、そのような何かのバロメータにおいて「否」と判定されるような事態に陥っているのであるならば、もう既に回復が困難な状態までおかしくなっていると考えなければならないのである。仏弟子がたもつべき戒律も、それと同様に考えるべきものであり、戒律を犯すということは、その意味であってはならないことなのである。すなわち、覚りの境地に至ることを目指す人が、仏弟子としてたもつべき戒律を図らずも破ってしまうというときには、すでにその人は仏弟子としての資格・資質を疑われるくらい異常な状態に陥っていると考えなければならない。

よって、戒律とともに仏道修行に勤しむとは、

「いつ何どきに戒律に照らしても、自ら恥じるべき行為が無いことを常に確信できる状態で修行すること」

を指しているのである。そして、そのような戒律をたもつ究極の状態こそが覚りの境地であり、この境地においては、

「何についても、最初も良く、中程も良く、終わりも良い」



行為を為すに至るのである。それは、

「自らの行為をいつ何どきに振り返っても、常にそれが後悔の無い、善き行為であったことを、こころに嘘いつわり無く楽しむ境地」



に他ならない。

自ら仏道を歩んで、不滅の安穏を目指す仏弟子は、戒律についてはこのように理解すべきであり、このように理解しなければならない。

(以上引用)