#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 21偈、22偈、23偈

21 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、仏を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。

22 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、ダルマ(法、真理)を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。
  
23 たとい百年のあいだ毎月千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいても、その功徳は、サンガ(教団、僧衆)を信ずる(功徳)の十六分の一にも及ばない。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回、掲載しました3偈は、7月17日に掲載しました次の3偈と趣旨は同じです。
https://76263383.at.webry.info/201907/article_16.html

17 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く少量の)食物を摂(と)るようなことをしても、仏を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

18 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、ダルマ(法、真理)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

19 (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、サンガ(教団、僧衆)を信じること(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

その日(7月17日)は、仏法僧の本質について、つぎのようにコメントしました。
「仏とは目覚めること、法とは正しいこと、僧とは清浄という意味である。」

もう少しわかりやすく説明すると、「目覚めること」とは、自己の中にいる仏に気づくことです。
「正しいこと」とは道理に従っているということです。
「清浄」とは、心に対立がないこと、心に悪意がないこと、心が静かであることです。