#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 2偈

2 忍耐、堪忍は最上の苦行である。安らぎ(ニルヴァーナ)は最高のものであると、諸のブッダは説きたまう。他人を害する人は、他人を悩ますのだから、出家した<道の人>ではない。

(ダンマパダ184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「忍耐、堪忍は最上の苦行である。」の「苦行」は、原文では「tapo」という言葉が使われているので、苦行と訳されているのでしょうが、ブッダは苦行を否定していますから、いわゆる苦行ではありません。つまり、肉体に苦痛をもたらす修行ではないのです。困難な修行という意味です。

困難な修行とは何でしょう? それが忍耐、堪忍なのです。SRKWブッダは、次のように述べています。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

(以下引用)
【恕(じょ)すこと】

人が、他の人と互いに言葉を以て関わるとき、次のことが起こる。



○すなわち、人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。

しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは「最上の忍耐」と呼ばれる。そして、そのような「最上の忍耐」を為す人こそが、ついには因縁を生じて一切の争いから解放されるのである。それがそのように起きたとき、まさしく法(ダルマ)が世に出現したのであると知られることになる。

ところで、ある人が、たとえ相手と口汚く罵り合うことが無いとしても、もしかれが相手の言葉を恕(じょ)していないのであるならば、かれは忍耐に欠けるところがある人なのである。かれには、その欠けるところにまつわって起こるさまざまな争い事がつきまとう。



その一方で、ここなる人が、たとえある相手と口論することがあるとしても、たとえばその事後にかれがその口論についての(正しい)省察を為し、為し遂げて、その口論が争闘では無かったと知り、あるいはその口論が後にも争闘へと発展してしまうことはないと確信できたとするならば、かれはその根を(正しく)制したのであり、かれは相手の言葉をよく恕(じょ)したのである。したがって、かれにはその相手にまつわる争い事が起こることはないのである。かれが、相手の言葉をよく恕(じょ)したということは、実は自分のためだけでなく、相手のためになることをも同時に行ったことになるのである。

このことわりゆえに、人が為すさまざまな行為の中で、恕(じょ)すことこそが最高の徳行であると知られ、称讃されるのである。
(以上引用)

次は「安らぎ(ニルヴァーナ)は最高のものである」について、この確信が修行者にとって大事なことであります。これについてはSRKWブッダの次の感興句を学んでください。
http://srkw-buddha.main.jp/udana130.htm

(以下引用)
【修行者にとって大事なこと】

修行者にとって大事なことは、覚りに向かう強い意志があることでは無い。それよりも大事なことは、向かうべき覚りの境地(=ニルヴァーナ)が本当に素晴らしい楽しみの境地であるという確信である。
(以上引用)

ここで、少し唐突と思われるかもしれませんが、般若心経の真言「ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼじそわか」の「ぼじそわか」は「ニルヴァーナは最高」と言っていると確信しています。

 





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