#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 13偈

13 愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることが無い。___匙が汁の味を知ることができないように。

14 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理をはっきりと知る。___舌が汁の味をただちに知るように。

 
(ダンマパダ64 愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。)

(ダンマパダ65 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。___舌が汁の味をただちに知るように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
ダンマパダ64、65については、2009年12月17日に解説しました。参考になるので一部を再掲載します。
https://76263383.at.webry.info/200912/article_17.html

(以下引用)

〇超訳の試み

無知の自覚のない人は
真理を教えてもらっても
教えられたことが頭に入らない
満たされたコップに水を注ぐように

無知の自覚のある人は
真理を教えてもらえば
教えられたことが頭に入る
空のコップに水を注ぐように

〇子供のためのダンマパダ

不注意な子は
先生の話が分からない
聞いてないのだから
しょうがないね

注意深い子は
先生の話がよく分かる
よく聞いているのだから
とうぜんですね

〇一口メモ

 真理を知らない凡夫が本当に愚か者かどうかは、前の63番の詩で述べたように、無知の自覚があるかどうかであります。無知の自覚のない人は知る能力が麻痺しているのです。ですから、賢者、悟った人に真理を教えてもらっても、受け取れない、理解できないのです。その状態はまさに、この詩の例のように、匙はスープの味は分からないのです。また、超訳の例で言えば、汚れた水で満たされたコップのように、きれいな水を注いでも溢れるだけなのです。無知の自覚のない愚か者の頭の中は、間違った固定概念や妄想でいっぱいで、ありのままの正しい情報は頭のなかに入らないのです。一方、無知の自覚のある凡夫は、舌がスープの味が分かるように、真理が分かります。余計な固定概念を捨て、妄想をなくした頭には、真理はすぐに入って行くのです。

 「子供のためのダンマパダ」では、注意力に着目しました。子供は大人と違って、自分は知らないことが多いことを大人より自覚しています。ですから、子供は何でも知りたがります。子供の頭は固定概念や妄想は少ないのです。しかし、子供の場合は何でも知りたがりますから、注意が分散してしまいます。ですから理解できなくなります。学校の例は、子供はよそ見をして、先生の話を聞いていないのです。先生は子供の注意を集中させるような面白い話をする必要があるのですが、子供は先生の話をよく聞くようにしなければいけません。

(以上引用)

愚か者は、真理の言葉(法の句)を聞いても、それが真理とはわからず、解脱できないのです。
一方、聡明な人は、善知識から発せられる真理の言葉(法の句)を聞いて、解脱するのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 12偈

12 それ故に、賢者は、自分は、果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものであるということわりを見て、悪人と交わるな。善人と交われ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「それ故に」とは、前回の偈を受けているのです。

「11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである。」

「果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものである」は前回説明しました。

自分の人生を振り返ってみると、幼い頃はひとりでに友達ができました。中学校に入学したときは、友達がなく、親友を求めていました。しかし、それは求めても得られるものではありませんでした。
その後は、部活の友達とか、同じ趣味の友達と付き合っていました。

「悪人と交わるな。善人と交われ。」という思いはなかったのですが、立派な人間になりたいという向上心はありましたから、善人と交わるようにしていました。おかげで、SRKWブッダにも会い、何人かの善友とも会い、善知識(化身)とも会いました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 11偈

11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである。 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈も、すでに掲載した次の偈の流れのものであります。

「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交(まじ)われ。」
https://76263383.at.webry.info/201907/article_30.html

その理由は、人はやがて付き合う人とおなじような人になるということです。不思議のようですが、物の世界では共振ということもあります。目に見えない心の世界でも共振ということがあるのです。心が共振すれば、同じような人間になるのです。
 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 10偈

10 つき合っている悪人は、悪に触れられているが、また他人に触れて、悪をうつすであろう。毒を塗られた矢は、箭筒(やづつ)の束のなかにある、毒をぬられていない矢をも汚す。悪に汚れることを恐れて、思慮ある人は、悪人を友とするな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈も、悪人を友とするなと教えています。悪人を毒に塗られた矢に例えています。悪人は腐った果物にも例えられます。腐ったりんごやみかんを同じ箱に入れて置くと、他の果物もすぐに腐ってしまうのです。

さて、昨日は広島市の平和記念公園の平和記念式典に参加した後、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学しました。そこで被爆体験記朗読会に参加しました。

そこで、聞いた原爆詩を一つ紹介します。

「げんしばくだん」(坂本はつみ)
げんしばくだんがおちると
ひるがよるになって
人はおばけになる

(執筆時:比治山小学校3年)
(出典:『原子雲の下より』青木書店)

何度も読んで、この内容をイメージしてください。

また、広島平和記念資料館や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学されてない方は是非一度は参加してみてください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 9偈

9 (自分では)悪いことをしていなくても、悪事をなす人とつき合うならば、同じ悪事をしているのではないかと疑われ、その人に対する悪い評判がたかまる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、7月30日に掲載した次の偈の前半の理由の一つです。
「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交(まじ)われ。」
https://76263383.at.webry.info/201907/article_30.html

なぜ悪い友と交わってはいけないかと言えば、自分は悪人ではなくても、悪人と思われるていまうのです。悪人と思われてしまうだけなら、まだよいのですが、本当に自分が悪人になってしまう可能性があるのです。ですから、注意しなければいけないのです。

さて、私たちの旅行ですが、昨日は朝5時前に家を出て羽田に向かいましたが、7時発の広島行きの便の登場手続きに間に合わず、8時15分発の便になりました。しかし、無事に9時40分には広島空港に着きました。これも旅行の内だと面白く納得していました。私が落ち着いていましたから、妻も落ち着いていました。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 8偈

8 人がパラーシャの葉でタガラ(香木の粉末)を包むならば、その葉もまた芳香をただよわす。同様に、立派な人々と交るならば、善いことが現れる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「パラーシャの葉」を調べていたら、「葉衣観音」が出てきました。

「葉衣観音(ようえ)、または葉衣仏母ともいう。パラーシャ樹の葉をまとうシャバラ族の女性という意味を持つ仏である。シャバラ族というのは中央インド・デカン高原やその他の山間森林部に移住した種族のことである。恐れられていた部族であったことから、憤怒の尊として信仰されるようになったらしい。
日本などでは被葉衣観音とも呼ばれ柔和相になった。三十三観音の一尊であり、住居から悪魔を祓い守護するという。また疫病などに効験を顕わし守護結界を張る。ベンガル地方からチベットで信仰されたという。」

と書いてありました。「パラーシャの葉」は物を包めるような葉なのでしょう。
「タガラ」は、補足説明があるように、香りのよい粉末です。これをパラーシャの葉で包めば、香りのないパラーシャの葉に香りが移ります。

そのように、立派な人々と交るならば、その人の徳に影響されて、自分も立派な人間になれるのです。ですから、立派な人間になろうと思うならば、立派な人と親交すべきです。

最後に、お知らせです。明日8月5日から8月11日まで、広島と長崎を旅行します。その目的は妻の希望で、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」と「被爆74周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参加するというものです。そして、広島と長崎の観光をします。8月10日は熊本のSRKWブッダのお宅を訪問する予定です。パソコンは持って行くつもりですが、ブログを毎日更新できるかどうかわかりませんので、ご了承をお願いします。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 7偈

7 人が吉祥草の葉の尖(さき)で臭った魚を包むならば、その吉祥草でさえも悪臭を放つ。悪人に交りつき合う人々も同様である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「吉祥草」をネットのコトバンクで調べたら、次のように記されていました。

吉祥草 (読み)きちじょうそう (英語表記)kusa
ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説

「かやに似た植物。古代インドにおいて祭祀の際に地面にまいて祭場をつくるのに用いられた。釈尊が悟りを開いたときに菩提樹の下に,この草を敷いて坐したともいわれる。矩尸,姑奢などとも音写され,上茅どとも訳される。」

「英語表記 susa」がおもしろいですね。日本語と同じですね。

さて、岩波文庫の中では、イティヴッタカ76・6番目参照と記されています。
イティヴッタカ76では「楽しみ」と題して、「賢い人は三つの楽しみを望みながら、戒めを守るべきである。それは名誉と富を得ることと、死後天上界で悦楽することである。」と述べられています。その中で、この偈と同様の偈が述べられています。

「朱と交われば赤くなる」ということです。ですから、悪人に交りつき合うべきではないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 6偈

6 知慧についても、徳行についても、心の静まりについても、最上のすぐれた人々に近づき仕える人は、つねにすぐれた境地に達する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈では、どのような人がすぐれた人であるかを判断するために、三つの点が指摘されています。

先ず知慧について、次に徳行について、そして心の静まりについてです。

仏教の修行について、三学(戒定慧)がいわれます。順番はちがいますが、それに相当しています。
しかし、その内容については、吟味しなければいけません。通常言われている内容は誤解が多いのです。

知慧とは、そのことばを聞いて、人を解脱させる言葉です。

徳行とは、法から外れない行為です。

心の静まりとは、心に対立がないことです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 5偈



5 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりすぐれた人とつき合え。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、すでに掲載した3偈「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。」の偈の説明になっています。

「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな」、その理由は「劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。」からです。

また、「善い友と交われ。尊い人と交われ」、その理由は「すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する」からです。

「しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう」については、自分自身が劣った卑しい者でなければ、堕落することはないであろうということです。もし、自分自身が劣った卑しい者であるならば、堕落することになるのでしょう。

自分自身が劣った卑しい者であっても、すぐれた者に近くならば、その人の影響を受けて、堕落することのない人間になるでしょう。

それ故にこの世では自分よりすぐれた人とつき合うことがよいのです。