#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 13偈

13 前にはあったが、そのときは無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を、初めて読むと何が書いてあるのかわからないでしょう。しかし、何度か読むと解ってきます。

ですから、この偈の解説は今日するのではなくて、明日することにします。

今日一日は、何度かこの偈を思い出して、何だろうか考えてください。

前にはあったが、そのときはなかったもの?

前には無かったが、そのときはあったもの?

前にも無かったし、のちにも無いもの? また今も存在しないもの?




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 12偈

12 修行僧のこの舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかになるだろう。情欲と怒りとを断ったならば、汝は安らぎ(ニルヴァーナ)におもむくであろう。 

(ダンマパダ369 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうためには、はじめにそれに向かおうと思うことが必要です。そのような思いが生まれるためには、善友の言葉が必要です。

そしてまた、その言葉を聞き取れるためには、情欲と怒りがないことが必要です。情欲と怒りがあるとそれを聞き取れないのです。安らぎ(ニルヴァーナ)は、情欲と怒りと反対方向にあるものだからです。
ちなみに、ここで情欲ということばが使われているのは、単なる欲ではなく、不必要な欲を意味しています。ただし、怒りはすべて不必要なものであり、必要な怒りはありません。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 11偈

11 気力無くなまけている人も、遅鈍な人も、はっきりと知ることの無い人も、あらゆる絆(きずな)を破りくだく安らぎ(=ニルヴァーナ)に達することはできない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

気力ありはげむ人も、俊敏な人も、はっきりと知る人は、あらゆる絆を破りくだき、安らぎ(=ニルヴァーナ)に達することはできる可能性がありますが、それに達するためには因縁が必要です。

安らぎ(ニルヴァーナ)は、9偈「ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。」と説かれているように、因縁にもとづいているからです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 10偈

10 鹿の帰るところは野原の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別ある人々の帰(き)するところはことわり(=義)であり、もろもろの真人の帰(き)するところは安らぎ(ニルヴァーナ)である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

安らぎ(ニルヴァーナ)と、言葉で表現していますが、その実態は経験していない人にはわからないのです。

そこで、それを体得し、経験し、そこで生きているブッダはこの偈(詩)で伝えているのです。

草食動物である鹿は、野原にいつまでも留まっていると肉食動物に襲われる危険があります。そこで、野原の奥の林などに身を隠します。そこで安全を確保するのです。

鳥も危険があると空(虚空)に逃げます。鳥にとっては空は安全なのです。

「分別ある人々」とは、理性的な人々、感情的にならない人々です。このような人々にとって、安全な生き方は「ことわり(=義)」に基づく生き方なのです。

このようなイメージのなかで、最後に「もろもろの真人」とは阿羅漢のことですが、解脱した人々の安全は場所、彼らの生きている境地を、安らぎ(ニルヴァーナ)と表現しているのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 9偈

9 ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は重要です。

SRKWブッダは、そのホームページ「覚りの境地」において、因縁について、多く語られておられますが、ここでは「感興句」の次の言葉を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana004.htm

(以下引用)

【因縁】

人が解脱して覚りの境地に至ることに限らず、この世の出来事はすべからく因縁にもとづいて起こるのである。そして、因縁は人為を以てどうこうできるものではないものなのであると言わねばならない。すなわち、因縁は人が為す行為の帰趨とは言えず、それゆえに経験や努力などによって因縁を醸成したり薫習したりすることは出来ないのである。

かと言って、因縁は世間で言うところの運命や宿命と並び称されるものにはあたらず、一部さえもそれらに属さず、つまるところそれらとは関係がない。

それゆえに、人が何を為そうとも、あるいは為さずとも、何か特定のことによって覚りの境地に至る因縁(=<一大事因縁>)を生じるとは断定的には言えないことである。しかしながら、ここなる人が聡明であって、人と世の真実を知ろうと熱望するならば、かれ(彼女)は覚りの境地に至る因縁を間違いなく生じるであろうと言うことができ、それは決して気休めではない。

こころある人は、世のさまざまな因縁を超えて覚りの因縁を生じ、自らの因縁によって円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。

(以上引用)

少し付け加えて述べるならば、次のことであります。

仏教は因果を説くものではありません。人は因縁があって解脱するものであることを説くものです。ですから、瞑想すれば解脱するとは説きません。戒律を守れば解脱するとも、経典を読めば解脱するとも説きません。

人は功徳を積み、気をつけて遍歴し、因縁により、善知識(善友)と遭遇し、法の句を聞き、解脱するのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 8偈

8 善い領域(=天)におもむく人々は少ない。悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。このことわりをあるがままに知ったならば、安らぎ(ニルヴァーナ)に専念するものとなるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この8偈の表現とは異なりますが、ダンマパダ174は、これに類似した偈です。

「この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。」

もっとも、「善い領域(=天)におもむく人々は少ない。」と「天に至る人は少ない。」が似ているということですが。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 7偈

7 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(=わが身)は苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、安らぎ(ニルヴァーナ)に専念するものとなるであろう。

(ダンマパダ203 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ203の因縁物語も、「—こころの清流を求めて—パーリ語仏典ダンマパダ」より引用します。

(以下引用)
ある日、仏陀は神通力によってはるか遠くのアーラウィ町にいる一人の貧しい男を感知され、彼に預流果の悟りを得る潜在能力があることを洞察された。仏陀はこの男に会うため弟子たちを伴ってジェタヴァナ僧院を出発された。アーラウィ町の人々は仏陀の来訪をたいへん喜び、男も是非仏陀の説法を拝聴したいと思った。しかし、運の悪いことに、彼が世話をしている牛たちの中から一頭が行方不明になり、「すぐに牛を探すべきか? それとも今すぐ説法を聞きに行くべきか?」とどちらを優先すべきかと悩んだ末、まず牛を見つけ出し、次に仏陀の説法を聞くことを決めると、早速牛を探しに出発した。

当日、アーラウィの人々は、自分たちの作った御馳走を仏陀がおられる会場に持ち寄り、仏陀に施しをした。そして説法が始まるのを楽しみにしていた。しかし、仏陀はまだ説法をはじめられず、男の到着を静かに待たれたのである。

一方、男はようやく迷子の牛を見つけ出すや、激しい疲労と空腹に耐えながら仏陀のおられる会場に向かって駆け出した。ふらふらになって会場に現れた男を見て、仏陀はすぐに給仕の一人を呼び、「まだ食べ物が残っているか? あの男をすぐに席に着かせ食べ物を与えよ」と自ら直接指示されたのである。

この仏陀の意外な振る舞いに弟子たちは少々驚き、互いに顔を見合わせた。食事を終えた男は気持ちも落ち着いてきた。その様子を見て仏陀は説法をはじめられ、彼は預流果の悟りを得た。

やがて仏陀はアーラウィの人々に別れを告げて長い帰路につかれた。その道中、弟子たちが「あの時の尊者の行動は何だったのだ」「今だかつてあのようなことをされたことはなかった」と話し合っていた。仏陀は、「比丘たちよ、私が長い困難な旅をしてまでアーラウィ町にやって来たのには目的があった。それは、あの男に法を説くためであった。しかし、私の前に現れた男は、激しい疲労と空腹に苦しんでいた。そのような状態の中で法を説いても、彼は私の教えを理解することができないだろうと思い、先ず最初にあのように食事を与えたのである」と答えられ、「比丘たちよ、飢餓は最大の病気なり、五蘊は最大の苦しみなり、賢者は、これをあるがままに理解して、煩悩の炎が吹き消された涅槃という無上の幸福を得る」と説かれたのである。
(以上引用)

実を言うと、ダンマパダの偈の因縁物語は偈と直接関係のないと思もわれるものもありますが、後の注釈者が、他の経典から偈の意味の参考になるものを探して記されたのでしょう。

「飢えは最大の病い」という意味は、飢えは毎日食べ物という薬で治療しなければならない病だという意味であると言われています。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 6偈

6 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の友であり、安らぎ(ニルヴァーナ)は最上の楽しみである。 

(ダンマパダ204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ブッダがダンマパダ204偈を述べられた因縁物語はつぎのようなものであります。
(「_こころの清流を求めて_パーリ語仏典ダンマパダ」より引用)

ある時期、コーサラ国パセナディ王は過食に走っていた。そして王は僧院で仏陀の説法を拝聴している時、猛烈な睡魔に襲われた。その原因は過食にあると判断された仏陀はパセナディ王に次の詩偈を唱えるようにアドバイスされた。

 『常に意識して適量の食事を取る人は、諸々の苦しみが軽くなり、
  老いもゆるやかに進み、健康を保つことができる」と

しかし、パセナディ王はそれを暗記することができなかった。

そこで仏陀は王と一緒に来ている甥のスダッサナ王子に代わりに暗記させ、「スダッサナよ、食事中、王が最後の一口のご飯を口に運ぼうとするたびに、この詩偈をそばで唱えて王に警告を与えなさい」と命じられた。スダッサナ王子は仏陀の言葉を忠実に毎日実行したためパセナディ王の体重が減りはじめ体調もよくなった。

ある日、王はそのお礼も兼ねて仏陀を訪ねた。「尊者よ、実に私の身体が軽くなりました。以前よく喧嘩していた甥とも仲良くなり、娘もこの甥と結婚して幸せに暮らしております。以前紛失した高価な宝石も見つかり、また尊者の弟子たちと親交を深めております。私はたいへん幸せである」とお礼を言った。

仏陀は「王よ、健康はあなたの求めることができる利得の中で最高のものである。足りることを知るは、あなたが手に入れることができる財産の中で最高のものである。信頼できる友人は、あなたの身の回りにいる人々の中で最高の親族である。そして、煩悩が吹き消された涅槃は、あなたがてに入れることができる幸福の中で最高のものである」と説かれたのである。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 4偈、5偈

4 こわれた鐘のように、汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ならば、汝は生れては死ぬ流転の迷いをながく受けるであろう。

5 しかし、こわれた鐘が音を出さないように、汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば、汝はすでに安らぎ(ニルヴァーナ)に達している。汝は怒り罵ることがない。

(ダンマパダ134 こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

4偈の「こわれた鐘のように」に続く「汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ならば」の関係と、5偈の「こわれた鐘が音を出さないように」に続く「汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば」の関係が矛盾しているように思えますが、言いたいことは、比喩ではなく、いつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)かどうかです。

訳者は、「自分を動揺させ」に対して、カッコで意味を(煩悩をおこす)と意味を補っています。その訳は、自分を動揺させると妄想が現れます。妄想が現れると欲や怒りや迷いが現れるのです。欲や怒りや迷いを煩悩というのです。これらが輪廻転生の原因ですから、「汝は生れては死ぬ流転の迷いをながく受けるであろう。」となるのです。一方、「汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば、」輪廻転生は繰り返さないということです。

ダンマパダ134は、「声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。」と素朴に表現しています。いつも声をあららげないでいることは、いつも落ち着いて、静かでいなければできません。それができる人は、安らぎ(ニルヴァーナ)に達しているのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 3偈

3 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。 

(ダンマパダ133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

少し前に、芸人の矢部太郎さんが描いた漫画「大家さんと僕」という漫画が話題になったことがあります。その本を妻が図書館から借りてきました。面白いと言うので、わたしも見せてもらいました。

この大家さんは荒々しいことばを話さないのです。挨拶は今時珍しい「ごきげんよう」と言うのです。穏やかなやさしい言葉を話すと、心が穏やかになって、落ち着きます。

荒々しいことばを話すと、それを聞いた人の心は波立ちイライラしてくるのです。そして、イライラした心で言い返しますから、さらにこちらも苛立ち、苦しくなるのです。ですから、荒々しいことばを使わない方がよいのです。

穏やかな、やさしいことばを話しましょう。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 2偈

2 忍耐、堪忍は最上の苦行である。安らぎ(ニルヴァーナ)は最高のものであると、諸のブッダは説きたまう。他人を害する人は、他人を悩ますのだから、出家した<道の人>ではない。

(ダンマパダ184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「忍耐、堪忍は最上の苦行である。」の「苦行」は、原文では「tapo」という言葉が使われているので、苦行と訳されているのでしょうが、ブッダは苦行を否定していますから、いわゆる苦行ではありません。つまり、肉体に苦痛をもたらす修行ではないのです。困難な修行という意味です。

困難な修行とは何でしょう? それが忍耐、堪忍なのです。SRKWブッダは、次のように述べています。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

(以下引用)
【恕(じょ)すこと】

人が、他の人と互いに言葉を以て関わるとき、次のことが起こる。



○すなわち、人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。

しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは「最上の忍耐」と呼ばれる。そして、そのような「最上の忍耐」を為す人こそが、ついには因縁を生じて一切の争いから解放されるのである。それがそのように起きたとき、まさしく法(ダルマ)が世に出現したのであると知られることになる。

ところで、ある人が、たとえ相手と口汚く罵り合うことが無いとしても、もしかれが相手の言葉を恕(じょ)していないのであるならば、かれは忍耐に欠けるところがある人なのである。かれには、その欠けるところにまつわって起こるさまざまな争い事がつきまとう。



その一方で、ここなる人が、たとえある相手と口論することがあるとしても、たとえばその事後にかれがその口論についての(正しい)省察を為し、為し遂げて、その口論が争闘では無かったと知り、あるいはその口論が後にも争闘へと発展してしまうことはないと確信できたとするならば、かれはその根を(正しく)制したのであり、かれは相手の言葉をよく恕(じょ)したのである。したがって、かれにはその相手にまつわる争い事が起こることはないのである。かれが、相手の言葉をよく恕(じょ)したということは、実は自分のためだけでなく、相手のためになることをも同時に行ったことになるのである。

このことわりゆえに、人が為すさまざまな行為の中で、恕(じょ)すことこそが最高の徳行であると知られ、称讃されるのである。
(以上引用)

次は「安らぎ(ニルヴァーナ)は最高のものである」について、この確信が修行者にとって大事なことであります。これについてはSRKWブッダの次の感興句を学んでください。
http://srkw-buddha.main.jp/udana130.htm

(以下引用)
【修行者にとって大事なこと】

修行者にとって大事なことは、覚りに向かう強い意志があることでは無い。それよりも大事なことは、向かうべき覚りの境地(=ニルヴァーナ)が本当に素晴らしい楽しみの境地であるという確信である。
(以上引用)

ここで、少し唐突と思われるかもしれませんが、般若心経の真言「ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼじそわか」の「ぼじそわか」は「ニルヴァーナは最高」と言っていると確信しています。

 





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 1偈

1 亀が諸の肢体(首と四肢と尾と)を自分の甲のなかにひっこめるように、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほごして、なにびとをも謗るな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

亀は、首(頭)と手と足と尾を甲羅の中に引っ込めるので、亀のことを蔵六とも言います。そこで、ブッダは、亀のように、六つのものを引っ込めることを提唱しました。六つのものとは、眼と耳と鼻と舌と身と意です。眼を引っ込めると言っても、見ないことではありません。

見ることによって、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほぐすのです。耳と鼻と舌と身と意(考えること)についても同様です。

このように、自分の眼と耳と鼻と舌と身と意を引っ込めることができたら、安らぎ(ニルヴァーナ)に入ったのです。その人はなにびとをも謗ることはありません。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 25偈

25 よく気をつけていて、明らかな知慧あり、徳行をたもち、学ぶところ多く、しっかりしていて、
敏捷な人に親しめよ。___諸々の星が月にしたがうように。

(ダンマパダ208 よく気をつけていて、明らかな知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善い人、英知ある人に親しめよ。___月がもろもろの星の進む道にしたがうように。)
                        以上第25章 友

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、「第25章 友」の最後の偈になりますから、このこの章のまとめでしょう。友として親しむならば、「明らかな知慧あり、徳行をたもち、学ぶところ多く、しっかりしていて、敏捷な人に親しめよ。」ということになります。

なぜ、敏捷な人という言葉がでてきたのかについて、一つの解釈をのべます。敏捷さを妨げるものとして、「名称と形態」があるのです。名称と形態がない人は、こだわりがありませんから、敏捷なのです。ですから、ここのこの言葉がでてきなのでしょう。

「名称と形態」については、SRKWブッダの理法「名称と形態」をお読みください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou006.htm

最後に、「諸々の星が月にしたがうように。」について、ダンマパダ208では、「月がもろもろの星の進む道にしたがうように。」になっており、一見すると表現が逆のようにみえますが、月も星も大きな道にしたがって進んでいますので、違いはないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 24偈

24 愚かな者を見るな。その言葉を聞くな。またかれと共に住むな。愚人らと共に住むのは、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある人々と共に住むのは楽しい。___親族に出会うようなものである。


(ダンマパダ207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。___仇敵とともに住むように。心ある人と共に住むのは楽しい。___親族に出会うように。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「愚かな者を見るな。その言葉を聞くな。またかれと共に住むな。」とは、愚かな者と付き合うなということです。

何故ならば、彼らは無益な争いをつくるからです。争いは楽しくないのです。



その点、思慮ある人々と付き合うと、こまった時には助けてくれるし、自然や人生の不思議を知らせてくれます。それは実に楽しいものです。

私ことですが、昨日から娘と孫娘(2歳10ヶ月)が泊まりに来ています。その孫娘は寝起きが大変よいのです。朝起きても、お昼寝から目覚めても、起きるといつもニコニコしています。今日も、楽しい夢を見たそうです。その夢の内容は、ママがさらちゃんと言っとので、はいと言ったのということです。いつも楽しい夢を見られるといいですね。

思慮ある人と付き合うと、楽しい夢を見られるようになるでしょう。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 23偈

23 称賛してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する賞賛よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、一昨日掲載した21偈と同様の趣旨のものです。もう一度掲載します。

21 (友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、(悪いことを教えて)ひとを地獄にひきずり下(おろ)す。

称賛してくれる愚者の言葉に従うと地獄に落ち、避難してくれる賢者の発する言葉に従うと解脱に導かれるのです。

さて、一昨日のコメントで、今回の選挙で参議院議員になられたALS患者の舩後靖彦さんの言葉をうる覚えで引用しましたが、少し気になりましたので、舩後靖彦・寮美千子共著「しあわせの王様」(ロクリン社)を購入し、読んでみましたので、正確な言葉を引用します。

(以下引用)
舩後は言う。「わたしは『ALSになった』という、たった一つのアンラッキーと引き換えに、無限の数のラッキーを、手に入れてしまった。これをしあわせと言わずして、なにをしあわせと言うのだろう?」と。
(以上引用)

さらに、舩後さんの奥さんの一文も記されていましたので、それも引用します。
(以下引用)
パパ。あなたはほんとうにしあわせですね。応援してくださるかたが沢山いて。普通に暮らしていると気がつかないけれど、世の中にはこんなにもあたたかい心が溢れているのですね。体が不自由で話すことが出来なくても、あなたのまわりには手となり足となり、そして声となって応援して下さるかたがいる。ほんとうにありがたいことです。パパ、あなたの使命! 応援して下さる皆様への感謝を、何かのかたちであらわさなくれは! 世の中にはつらいことや悲しいことが沢山あって、人生に絶望してしまっている人たちもいるかもしれない。そんな人たちに「もうちょっと待って、独りぼっちじゃないよ。いきていれば、いつか優しさにであえるよ。あなたのまわりにもきっとあったかい心があるよ。」って伝えていかなくては。」
(以上引用)






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 22偈

22 もしも愚者が「われは愚である」と知れば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかも自分では賢者だと思う者こそ、「愚者」と言われる。

(ダンマパダ63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ63については、10年前に解説しました。参考のために一部を引用します。
https://76263383.at.webry.info/200902/article_12.html

(以下引用)
このダンマパダの詩は、古代ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」(無知の知)が引用されて解説されることがあります。その内容は次のようなものです。「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない。」 つまり、ソクラテスは自分が知らないことを知っているだけ、彼らより賢いというわけであります。

 また孔子は論語の中で「これを知るを知るとなし、知らざるを知らずとせよ。これ知るなり。」と述べています。ついでに、老子からも引用しましょう。「知りて知らずとするは上なり、知らずして知るとするは病なり。」

 東西の賢者・聖人が述べていることは、自分が知らないということ、分かってないということを自覚することが非常に大切だということです。自分は知っている、分かっていると思ってしまえば、それ以上知ろうとしないし、分かろうとしません。そこで進歩が止まります。向上心が生まれてきません。私たちが知っていることなど、ほんの僅かだし、真理を知らない愚か者である私たちにとって、知っていること、分かっていることなど間違いが多いのです。ですから私は分かっていない愚か者だと思った方が正解なのです。むしろ本当にそのことを自覚できれば、その人は賢者なのです。

 ところが、自分が分かってないと思うのはなかなか難しいことです。ですから、老子の言葉のように、「知りて知らずとする」ことは有効な方法だと思います。すなわち、私の解釈では、「自分は知っていると思っているが、まだまだ本物ではない。まだ本当には分かってないのだ。」と自分に言い聞かせるのです。

 特に、ブッダの言葉は、深遠な智慧によって正しく説かれた真理ですから、世間的な常識では理解できないのだと自覚して、分かったと思っても本当にブッダの意図が理解できてないと思った方が正しいのです。
(以上引用)

この偈に付け加えるならば、自分は愚者であると思っている人も、常識を疑うということが必要です。特に、修行者は瞑想すれば悟れると思う常識を疑ってください。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 21偈

21 (友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、(悪いことを教えて)ひとを地獄にひきずり下(おろ)す。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「(友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。」このことが本当にわかると、世の中ので起こることは、すべてよいことだと思えるのです。

例えば、病気になることも、事故や災害に遭うことも、決して悪いことではないのです。そこから、智慧を得る可能性が生まれるのです。智慧が生まれた時、「よかった」と思えるのです。

今回の参議院選挙で、れいわ新選組から当選したALS患者の船後靖彦氏の言葉を記憶しております。記憶ですので、細かいことは正確ではないのですが、つぎの通りです。

「一つの病気のおかげで、無限の幸せを得た。これを幸せと言わずに何と言うのだ。」です。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 19偈、20偈

19 賢者の説いた、意義のある一つの句でも、目的を達成するものであるが、しかし愚者にとっては、仏の説かれたすべてのことでも、目的を達成するには至らないであろう。

20 愚者は、千の句をとなえても一の句さえも理解しない。聡明な人は、一つの句をとなえても、百の句の意義を理解する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この19偈と20偈も、前回掲載した17偈と18偈と同じ趣旨が説かれています。

19偈をわかりやすく書き換えてみまます。

仏が説いた、意義のある一つの法の句でも、聡明な人が聞くならば、解脱という目的に達するであろう。しかし、愚者は仏の説かれたどのような法の句を聞いても、その意味を理解できないために、解脱という目的を達することはできない。


20偈は、文章の主語を補って、書き換えてみます。

愚者は、(仏が)千の句をとなえても一の句さえも理解しない。聡明な人は、(仏が)一つの句をとなえても、百の句の意義を理解する。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 17偈、18偈

17 愚かな者は、生涯賢者たちにつかえても、正しくさとりを開いた人(=仏)の説かれた真理をはっきりと知ることがない。

18 聡明な人は、瞬時(またたき)のあいだ賢者たちにつかえても、正しくさとりを開いた人(=仏)の説かれた真理をはっきりと知る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

正しくさとりを開いた人(=仏)の説かれた真理とは、解脱に導くものでありますが、愚かな者は知ることができませんが、聡明な人は知ることができます。

この違いは、どこから来るのでしょうか?

15偈、16偈では、この違いは知慧があるかどうかであると説かれていました。愚かな者には知慧がなく、聡明な人には知慧があるということです。

ここでは説かれていませんが、付き合う友の影響もあるでしょう。愚かな友と付き合う者は愚かな者になり、聡明な人と付き合う人は聡明な人になるでしょう。どのような友と付き合うかは大切なことです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 15偈、16偈

15 愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることが無い。かれに明らかな知慧がないからである。

16 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理をはっきりと知る。かれには明らかな知慧が存するからである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

明らかな知慧があるかどうかは、素質があるかどうかではありません。真理を本当に知ろうとしているかどうかなのです。

真理を求めて気をつけて遍歴している人は、真理の言葉が発せられた時、それが真理だとわかるのです。その時は、その人には明らかな知慧があるとわかるのです。

愚かな者は、真理の言葉が発せられても、それが真理とはわからずに、いつも聞き逃しているのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 13偈

13 愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることが無い。___匙が汁の味を知ることができないように。

14 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理をはっきりと知る。___舌が汁の味をただちに知るように。

 
(ダンマパダ64 愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。)

(ダンマパダ65 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。___舌が汁の味をただちに知るように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
ダンマパダ64、65については、2009年12月17日に解説しました。参考になるので一部を再掲載します。
https://76263383.at.webry.info/200912/article_17.html

(以下引用)

〇超訳の試み

無知の自覚のない人は
真理を教えてもらっても
教えられたことが頭に入らない
満たされたコップに水を注ぐように

無知の自覚のある人は
真理を教えてもらえば
教えられたことが頭に入る
空のコップに水を注ぐように

〇子供のためのダンマパダ

不注意な子は
先生の話が分からない
聞いてないのだから
しょうがないね

注意深い子は
先生の話がよく分かる
よく聞いているのだから
とうぜんですね

〇一口メモ

 真理を知らない凡夫が本当に愚か者かどうかは、前の63番の詩で述べたように、無知の自覚があるかどうかであります。無知の自覚のない人は知る能力が麻痺しているのです。ですから、賢者、悟った人に真理を教えてもらっても、受け取れない、理解できないのです。その状態はまさに、この詩の例のように、匙はスープの味は分からないのです。また、超訳の例で言えば、汚れた水で満たされたコップのように、きれいな水を注いでも溢れるだけなのです。無知の自覚のない愚か者の頭の中は、間違った固定概念や妄想でいっぱいで、ありのままの正しい情報は頭のなかに入らないのです。一方、無知の自覚のある凡夫は、舌がスープの味が分かるように、真理が分かります。余計な固定概念を捨て、妄想をなくした頭には、真理はすぐに入って行くのです。

 「子供のためのダンマパダ」では、注意力に着目しました。子供は大人と違って、自分は知らないことが多いことを大人より自覚しています。ですから、子供は何でも知りたがります。子供の頭は固定概念や妄想は少ないのです。しかし、子供の場合は何でも知りたがりますから、注意が分散してしまいます。ですから理解できなくなります。学校の例は、子供はよそ見をして、先生の話を聞いていないのです。先生は子供の注意を集中させるような面白い話をする必要があるのですが、子供は先生の話をよく聞くようにしなければいけません。

(以上引用)

愚か者は、真理の言葉(法の句)を聞いても、それが真理とはわからず、解脱できないのです。
一方、聡明な人は、善知識から発せられる真理の言葉(法の句)を聞いて、解脱するのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 12偈

12 それ故に、賢者は、自分は、果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものであるということわりを見て、悪人と交わるな。善人と交われ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「それ故に」とは、前回の偈を受けているのです。

「11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである。」

「果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものである」は前回説明しました。

自分の人生を振り返ってみると、幼い頃はひとりでに友達ができました。中学校に入学したときは、友達がなく、親友を求めていました。しかし、それは求めても得られるものではありませんでした。
その後は、部活の友達とか、同じ趣味の友達と付き合っていました。

「悪人と交わるな。善人と交われ。」という思いはなかったのですが、立派な人間になりたいという向上心はありましたから、善人と交わるようにしていました。おかげで、SRKWブッダにも会い、何人かの善友とも会い、善知識(化身)とも会いました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 11偈

11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである。 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈も、すでに掲載した次の偈の流れのものであります。

「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交(まじ)われ。」
https://76263383.at.webry.info/201907/article_30.html

その理由は、人はやがて付き合う人とおなじような人になるということです。不思議のようですが、物の世界では共振ということもあります。目に見えない心の世界でも共振ということがあるのです。心が共振すれば、同じような人間になるのです。
 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 10偈

10 つき合っている悪人は、悪に触れられているが、また他人に触れて、悪をうつすであろう。毒を塗られた矢は、箭筒(やづつ)の束のなかにある、毒をぬられていない矢をも汚す。悪に汚れることを恐れて、思慮ある人は、悪人を友とするな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈も、悪人を友とするなと教えています。悪人を毒に塗られた矢に例えています。悪人は腐った果物にも例えられます。腐ったりんごやみかんを同じ箱に入れて置くと、他の果物もすぐに腐ってしまうのです。

さて、昨日は広島市の平和記念公園の平和記念式典に参加した後、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学しました。そこで被爆体験記朗読会に参加しました。

そこで、聞いた原爆詩を一つ紹介します。

「げんしばくだん」(坂本はつみ)
げんしばくだんがおちると
ひるがよるになって
人はおばけになる

(執筆時:比治山小学校3年)
(出典:『原子雲の下より』青木書店)

何度も読んで、この内容をイメージしてください。

また、広島平和記念資料館や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学されてない方は是非一度は参加してみてください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 9偈

9 (自分では)悪いことをしていなくても、悪事をなす人とつき合うならば、同じ悪事をしているのではないかと疑われ、その人に対する悪い評判がたかまる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、7月30日に掲載した次の偈の前半の理由の一つです。
「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交(まじ)われ。」
https://76263383.at.webry.info/201907/article_30.html

なぜ悪い友と交わってはいけないかと言えば、自分は悪人ではなくても、悪人と思われるていまうのです。悪人と思われてしまうだけなら、まだよいのですが、本当に自分が悪人になってしまう可能性があるのです。ですから、注意しなければいけないのです。

さて、私たちの旅行ですが、昨日は朝5時前に家を出て羽田に向かいましたが、7時発の広島行きの便の登場手続きに間に合わず、8時15分発の便になりました。しかし、無事に9時40分には広島空港に着きました。これも旅行の内だと面白く納得していました。私が落ち着いていましたから、妻も落ち着いていました。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 8偈

8 人がパラーシャの葉でタガラ(香木の粉末)を包むならば、その葉もまた芳香をただよわす。同様に、立派な人々と交るならば、善いことが現れる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「パラーシャの葉」を調べていたら、「葉衣観音」が出てきました。

「葉衣観音(ようえ)、または葉衣仏母ともいう。パラーシャ樹の葉をまとうシャバラ族の女性という意味を持つ仏である。シャバラ族というのは中央インド・デカン高原やその他の山間森林部に移住した種族のことである。恐れられていた部族であったことから、憤怒の尊として信仰されるようになったらしい。
日本などでは被葉衣観音とも呼ばれ柔和相になった。三十三観音の一尊であり、住居から悪魔を祓い守護するという。また疫病などに効験を顕わし守護結界を張る。ベンガル地方からチベットで信仰されたという。」

と書いてありました。「パラーシャの葉」は物を包めるような葉なのでしょう。
「タガラ」は、補足説明があるように、香りのよい粉末です。これをパラーシャの葉で包めば、香りのないパラーシャの葉に香りが移ります。

そのように、立派な人々と交るならば、その人の徳に影響されて、自分も立派な人間になれるのです。ですから、立派な人間になろうと思うならば、立派な人と親交すべきです。

最後に、お知らせです。明日8月5日から8月11日まで、広島と長崎を旅行します。その目的は妻の希望で、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」と「被爆74周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参加するというものです。そして、広島と長崎の観光をします。8月10日は熊本のSRKWブッダのお宅を訪問する予定です。パソコンは持って行くつもりですが、ブログを毎日更新できるかどうかわかりませんので、ご了承をお願いします。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 7偈

7 人が吉祥草の葉の尖(さき)で臭った魚を包むならば、その吉祥草でさえも悪臭を放つ。悪人に交りつき合う人々も同様である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「吉祥草」をネットのコトバンクで調べたら、次のように記されていました。

吉祥草 (読み)きちじょうそう (英語表記)kusa
ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説

「かやに似た植物。古代インドにおいて祭祀の際に地面にまいて祭場をつくるのに用いられた。釈尊が悟りを開いたときに菩提樹の下に,この草を敷いて坐したともいわれる。矩尸,姑奢などとも音写され,上茅どとも訳される。」

「英語表記 susa」がおもしろいですね。日本語と同じですね。

さて、岩波文庫の中では、イティヴッタカ76・6番目参照と記されています。
イティヴッタカ76では「楽しみ」と題して、「賢い人は三つの楽しみを望みながら、戒めを守るべきである。それは名誉と富を得ることと、死後天上界で悦楽することである。」と述べられています。その中で、この偈と同様の偈が述べられています。

「朱と交われば赤くなる」ということです。ですから、悪人に交りつき合うべきではないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 6偈

6 知慧についても、徳行についても、心の静まりについても、最上のすぐれた人々に近づき仕える人は、つねにすぐれた境地に達する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈では、どのような人がすぐれた人であるかを判断するために、三つの点が指摘されています。

先ず知慧について、次に徳行について、そして心の静まりについてです。

仏教の修行について、三学(戒定慧)がいわれます。順番はちがいますが、それに相当しています。
しかし、その内容については、吟味しなければいけません。通常言われている内容は誤解が多いのです。

知慧とは、そのことばを聞いて、人を解脱させる言葉です。

徳行とは、法から外れない行為です。

心の静まりとは、心に対立がないことです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 5偈



5 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりすぐれた人とつき合え。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、すでに掲載した3偈「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。」の偈の説明になっています。

「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな」、その理由は「劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。」からです。

また、「善い友と交われ。尊い人と交われ」、その理由は「すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する」からです。

「しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう」については、自分自身が劣った卑しい者でなければ、堕落することはないであろうということです。もし、自分自身が劣った卑しい者であるならば、堕落することになるのでしょう。

自分自身が劣った卑しい者であっても、すぐれた者に近くならば、その人の影響を受けて、堕落することのない人間になるでしょう。

それ故にこの世では自分よりすぐれた人とつき合うことがよいのです。