#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第25章 友 22偈

22 もしも愚者が「われは愚である」と知れば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかも自分では賢者だと思う者こそ、「愚者」と言われる。

(ダンマパダ63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ63については、10年前に解説しました。参考のために一部を引用します。
https://76263383.at.webry.info/200902/article_12.html

(以下引用)
このダンマパダの詩は、古代ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」(無知の知)が引用されて解説されることがあります。その内容は次のようなものです。「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない。」 つまり、ソクラテスは自分が知らないことを知っているだけ、彼らより賢いというわけであります。

 また孔子は論語の中で「これを知るを知るとなし、知らざるを知らずとせよ。これ知るなり。」と述べています。ついでに、老子からも引用しましょう。「知りて知らずとするは上なり、知らずして知るとするは病なり。」

 東西の賢者・聖人が述べていることは、自分が知らないということ、分かってないということを自覚することが非常に大切だということです。自分は知っている、分かっていると思ってしまえば、それ以上知ろうとしないし、分かろうとしません。そこで進歩が止まります。向上心が生まれてきません。私たちが知っていることなど、ほんの僅かだし、真理を知らない愚か者である私たちにとって、知っていること、分かっていることなど間違いが多いのです。ですから私は分かっていない愚か者だと思った方が正解なのです。むしろ本当にそのことを自覚できれば、その人は賢者なのです。

 ところが、自分が分かってないと思うのはなかなか難しいことです。ですから、老子の言葉のように、「知りて知らずとする」ことは有効な方法だと思います。すなわち、私の解釈では、「自分は知っていると思っているが、まだまだ本物ではない。まだ本当には分かってないのだ。」と自分に言い聞かせるのです。

 特に、ブッダの言葉は、深遠な智慧によって正しく説かれた真理ですから、世間的な常識では理解できないのだと自覚して、分かったと思っても本当にブッダの意図が理解できてないと思った方が正しいのです。
(以上引用)

この偈に付け加えるならば、自分は愚者であると思っている人も、常識を疑うということが必要です。特に、修行者は瞑想すれば悟れると思う常識を疑ってください。