#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 23偈

23 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「それの出離」とは、「生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの」からの出離です。つまりそれからの解脱です。

そこは、思考の及ばない静かな境地であり、苦しみのことがらの止滅した境地であり、つくるはたらきの静まった境地であり、安楽であり、安らぎ(ニルヴァーナ)なのです。

そこと言っても、場所が移動するわけではありません。そこにいて、境地が変わるだけです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 22偈

22 生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、___それは喜ぶに足りない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

生じたもの。
有ったもの。
起ったもの。
作られたもの。
形成されたもの。
常住ならざるもの。
老いと死との集積。(老いるものや死ぬものです。)
虚妄なるもので壊れるもの。
食物の原因から生じたもの。(食べ物を必要とするものです。)

これらのものは、21偈で説かれていた不生なるものではありません。不生なるものは喜ぶに値しません。

喜ぶべきものは、不生なるものなのです。不生なるものを知ったとき、それが不思議ものであり、明るいものであり、最上のものであり、比べることのないものであることがわかるでしょう。

今、台風15号が東京を通過中です。注意が必要ですが、大きなエネルギーがもたらされていることを感じます。救急車のサイレンが聞こえてきました。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 21偈

21 不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈には幾つかの意味のわかりにくい言葉があります。

それらは、不生なるもの、生じたもの、出離、作られざるもの(=無為)、作られたもの(=有為)、解脱などです。

「不生なるもの」は「作られざるもの(=無為)」と同じ意味です。

「生じたもの」は「作られたもの(=有為)」と同じ意味です。

「出離」は「解脱」と同じ意味です。

このように、整理すれは意味は少しわかってきます。

だだ、何が不生なるものかわかりません。人々が通常眼にしているもの、経験しているものは不生なるものではありません。それらは「作られたもの(=有為)」なのです。

「不生なるもの」、「作られざるもの(=無為)」の一つの例は、善友の発する「法の句」であると知れば、「不生なるもの」について、少し理解できるでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 20偈

20 何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)はサンスクリット語によるものですが、パーリ語仏典にも、ウダーナ(感興のことば)があります。その8章4に次の偈が附されています。
「原始仏典8ブッダの詩Ⅱ(講談社)桜部建・訳」より。

(以下引用)
何かに依存している者には動揺がある。
何にも依存しない者に動揺はない。
動揺がなければ安息がある。
安息があれば享楽はない。
享楽がなければ来ることも行くこともない。
来ることも行くこともなければ、死ぬことも生まれることもない。
死ぬことも生まれることもなければ、この世にあるのでも、あの世にあるのでも、両者の中間にあるのでもない。
それこそが苦の終わりである、と。
(以上引用)

人々は何かにすがって、或いは何かにすがろうとして、生きていますが、思い切って何にもすがらないようにして生きたらどうでしょうか。これほど、楽なことはありません。

そんなことは無理だと言う人は、自分は渓谷の吊り橋を渡っているように思っているのですが、実は平坦な大道を歩いているのですよ。大丈夫です。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 18偈、(19偈)

18 (1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

19 (訳文は18に同じ)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

SRKWブッダの電子書籍「仏教の真髄」の4章は「四聖諦」ですが、始めの部分を引用させていただきます。

(以下引用)

四聖諦とは

四聖諦とは、四つの聖なる真理という意味である。通常、苦・集・滅・道の四つを挙げる。そ れぞれ、次のように要約される。

苦諦:苦があるという真理
集諦:苦には原因があるという真理
滅諦:苦は滅することができるという真理
道諦:苦を滅する道が存在するという真理

仏たちがこれらを説くのは、人々(衆生)が苦に安住していながら、そのことについての自覚 がないことを憂えてのことである。仏たちには苦は存在しない。そして、人々(衆生)もまた覚 れば苦を抜くことができ、そのことそれ自体は保証されている。四聖諦は、それが誰にとっても そうであることを説くのである。

素質豊かな人は、これだけ聞いただけで覚りを求める心を起こすだろう。そのような人は四聖諦についてこれ以上追求する必要はない。四聖諦は、人々(衆生)に覚りを求める心を起こさせ ることを目的として説かれたものだからである。それで原始仏典では四聖諦そのものはあまり登 場しない。すなわち、原始仏典の舞台はサンガ(僧伽)が中心であり、サンガ(僧伽)に集う人 々はすでに覚りを求める心を起こした人々であるので敢えて四聖諦を説く必要がなかったので ある。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 17偈

17 見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものと知り、また識別されたことは識別されただけのものと知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日、表象作用と感受作用と識別作用については、明日掲載する予定の17偈で、もう少し具体的に説かれていますと述べましたが、この偈には、表象という言葉も、感受という言葉も出てきません。

そこで、まずその辺の説明から始めます。

表象作用とは、感受されたもの或いは考えたことを心にイメージすることです。感受とは外界からの刺激を受け入れることです。

表象作用の特徴は、見られたことは見られただけのもの、聞かれたことは聞かれただけのもの、考えられたことを、それだけにせず、それらに関する事柄を次々にイメージして、その連鎖が続くことです。この連鎖は、個人の経験、記憶に基づいており、非常に主観的なものなのです。

そして、この主観的なイメージの連鎖にもとづいて、ある事柄を他から区別する識別作用が働きます。このような識別は事実に反するために、人間は苦しむことになるのです。

これとは逆に、見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものと知り、また識別されたことは識別されただけのものと知ったならば、事実に基づく識別ですので、苦しみが終滅するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 16偈

16 身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫のこの偈の注には、「ここでは五蘊のうちの色・受・想・識に言及しているが、行に言及していないから、五蘊の説の確立する以前の段階の思想をしめしている。」と記されてあります。

身体が色で、表象作用が想で、感受作用が受で、識別作用が識です。たしかに行は書いてありませんが、表象作用と感受作用とを静められれば、識別作用は消えるでしょう。

識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅するのです。

「身体を壊(やぶ)り」について、仏教は苦行をすすめてはいませんから、身体を壊せと言っているわけではありません。

表象作用と感受作用と識別作用については、明日掲載する予定の17偈で、もう少し具体的に説かれています。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 15偈

15 この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れをおさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前の14偈で、「妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅する」と説かれていましたが、このことが解るのは容易ではないのです。確認しておきますが、妄執というものは自分の内部の要因です。

人々は苦しみは外的な要因で起こると思っています。端的に言えば、お金がないから苦しいと思っています。しかし、お金がないから苦しんでいるのではありません。お金がないと困ると思っているから苦しんでいるのです。それが解れば、苦しみはなくなります。

お金がないと困ると思わなければいいのですから。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 14偈

14 不動の真理は見難い。見易いものの真相を洞察して、妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「不動の真理は見難い。」・・・不動の真理は心の中にあります。しかし、心は極めて見難いものです。ダンマパダ36には次のように説かれています。

「心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。」

今回の偈では、不動の真理は見難いから、「見易いものの真相を洞察して」としてあります。見易いものは何でしょうか? 

見易いものは他人なのです。私たちは他人について、いろいろな思いを持ち、称賛することもありますが、あれこれ批判するのです。これらを簡単い行います。また、これらはすべて自分の価値観にもとづいて行われているのです。

これらの思いはすべて自分の思いの反映なのです。他人に対して悪意を持たない人は、他人が悪意をもっていることに気づけません。逆に、他人に対してすぐ悪意を持つ人は他人の悪意にすぐ気づくのです。他人は自分の鏡であることがわかります。

さて、不動の真理を知ろうとする人は、見易いものの真相、すなわち、他人の心を洞察して、これは自分の心を洞察することになりますが、そうすると他人と自分の心の苦しみの原因がわかってきます。それは妄執なのです。他人と自分の妄執を見る人は、妄執は消滅するのです。妄執が心を苦しめていることを知るからです。妄執が消滅すると苦しみが終滅するのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 13偈(再)

13 前にはあったが、そのときは無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は昨日の13偈を再掲します。いかがだったでしょうか? この偈の意味がわかりましたか?

わからなかった方のために解説します。

まず、「前に」の意味です。前とは解脱の前ということです。書いてくれなければわからないじゃないかと思われるでしょうが、ブッダが説かれることはすべて覚りや解脱や安らぎ(ニルヴァーナ)に関することがらなのです。それ以外のことはありません。ですから、前にと言われれば、解脱の前にということです。

前にあったものとは何でしょうか? 解脱していない方は、現在、今の状態です。言葉にする前に、感情型の人は今の気分を感じてください。感覚型の人は今の感覚を感じて下さい。直感型の人は今のイメージを浮かべて下さい。思考型の人は言葉にして下さい。

前にあったものを言葉で表現してみましょう。情欲、怒り、迷い、不安、恐怖などです。

では、解脱の前には無かったが、解脱したときあったもの何でしょうか? これは解脱してない方にはわからないでしょうが、だだ解脱する前にあったものが消えた状態をイメージすることは、ある程度理解できるでしょう。しかし、これは解脱した後にわかることとはまったく異なるものです。

言葉で表現すれば、情欲、怒り、迷い、恐怖など消えた状態ですが、一応、安らぎ(ニルヴァーナ)というのです。

では、最後に「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とはなんでしょうか?

言葉で言えば、私(我)です。これは解脱以前にはわからないことですが、解脱以後にははっきりとわかります。