#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 20偈

20 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体という名のものであって、病いに悩み、虚妄の意欲ばかりで、堅固に安住することがない。 

(ダンマパダ147 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日は、「つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。・・・」という偈を掲載しましたが、今日は一変、「見よ、粉飾された形体を!・・・」となりました。

しかし、実はよく見ると、同じことを言っているのです。よく見ると、王者の車も粉飾されているから、美麗であるように見えるのです。

身体は細胞でできています。その一つ一つの細胞は絶えず新陳代謝をしています。細胞の部品もすぐに古くなって、壊れてしまいますので、新しいものと取り替えているのです。また、それらの細胞自体も再生不能になって死んでしまうのです。

身体は「堅固に安住することがない」のです。そのようなものであるから、粉飾された形体(身体)に対する執著から離れるように説かれているのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 17偈〜19偈

17 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに迷うが、明らかに知る人々はそれに執著しない。  

17A つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、賢者はそれに対する執著を離れる。

18 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺する。___老いた牛がぬかるみの泥にはまり込んだように。

19 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに迷うが、賢者はそれに執著しない。

(ダンマパダ171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにこの身体を見よ。」とありますが、なぜでしょうか?

この身体がこのようにあるのは多くの因縁の結果なのです。父と母がいて、多くの人のおかげで、このように生きています。その過程で多くのことがありました。その結果としてこの身体があるのです。

今回の偈では、「王者の車のように美麗である。」と表現されていますが、昨日掲載した16偈では、「身体は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。」と表現されていました。身体は美麗であっても、泡沫やかげろうのように消え去ってしまうのです。

愚者は身体に対してあれこれ期待し、悩みますが、賢者はそれに対する執著を離れるのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 15偈、16偈

15 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。 

16 身体は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

(ダンマパダ170 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ170について、2009年5月2日に解説しました。約10年前ですが、世の移り変わりもうかがえますので引用します。
https://76263383.at.webry.info/200905/article_2.html

(以下引用)

 「世の中を泡のように見よ」「世の中を蜃気楼のように見よ」、これは毎日のニュースを見ていれば嫌でもこのように思えるはずです。最近の二、三日は豚インフレエンザのニュースの繰り返しです。一度報告してくれれば充分です。そのくせ、マスコミ関係者があわてているのに、動揺せずに、落ち着いて下さいと言っています。確かに検疫関係者や何人かの医療関係者や患者にとっては重大問題でいろいろ忙しいでしょうが、その他の人々はそれぞれ必要なことを冷静に行えばいいことです。日本中が大騒ぎする必要はないのです。

 このニュースの前は草なぎ剛さんのことで大騒ぎでした。その前はもう覚えてません。いくらか覚えているのは、北朝鮮のミサイル問題です。まったく、世の中は泡のようです。蜃気楼のようです。ある問題が現れたかと思うと消えています。問題が表れたときは大騒ぎして、大変だと深刻になり、その責任をいろいろな人に押し付けて、二、三日すると忘れているのです。ですから、どんなことのにも深刻になる必要はないのです。何かに執着することはまったく馬鹿馬鹿しいことなのです。

 しかし、どんな悪政のもとでも、私たちは幸福に生きて生きていきたいですし、いくべきです。そのためには、世の中は泡のようなものですから、それらに思い悩まずに、各自が今必要な仕事をすべきなのです。自分ができる、人に役に立つ仕事をすべきです。困っている人がいれば、自分のできることで助けるべきです。そうすれば、不幸にはなりません。

 ここで、「世の中」をどれだけ広げて考えられるかが問題になります。テレビで放映されているニュースだけでなく、自分自身の事柄も世の中のことです。自分自身の事柄を泡のようだと、蜃気楼のようだと観察するのは少し難しいのです。ですが、自分の失業や自分自身の病気のことも、世の中のことですから、泡のようだし、蜃気楼のようなものなのです。このように観察できれば、どんなことにも執着がなくなります。智慧が現れます。落ち着いて、必要な対応ができるようになります。そのような人は解脱した人であり、涅槃に達した阿羅漢なのです。死王とは、煩悩のある人、輪廻の世界にいる生命の支配者です。ですから、解脱して、涅槃に達した人は管理できない、見ることができないのです。

(以上引用)

ダンマパダには、「身体は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。・・・・・」の偈はないのですが、解説では、自分自身も泡のようだと、蜃気楼のようだと観察すべきだと書きました。

「死王もかれを見ることがない。」については、「死王とは、煩悩のある人、輪廻の世界にいる生命の支配者です。ですから、解脱して、涅槃に達した人は管理できない、見ることができないのです。」と解説しました。




 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 10偈〜14偈

11 学ぶことに生きがいを認め、奉仕(看護)を楽しむために、(戒律をまもって)生き、ブラフマンを奉じた生活を送っている人々がいる。___これは一つの極端説であると説かれている。

12 「快楽は享受されるべきであり、清らかである。快楽のうちに欠点は存在しない」とこのように見なす愚者どもがいる。___これは第二の極端説であると説かれている。

13 この二つの極端説を熟知しないで、愚者たちはそこに沈溺する。しかし他の愚者たちは走り過ぎて行く。眼ある人はかれらをよく見とどける。

14 この二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上ることはない。かれには(決った)道が存在しないのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は、転法輪経のはじめの部分を引用します。

(以下引用)
比丘たちよ、これら二つの極端は出家者のなすべきことではない。二つの極端とは何であるか、五欲における卑俗な・在俗の・凡俗な・聖者の行なうものでない・利益を伴わない娯楽に執着し耽ること、及び苦しい・聖者の行なうものでない・利益の伴わない肉体を苦しめる苦行に努めつことである。
比丘たちよ、如来はこれらの極端に従わず、中道をよく覚られた。

(以上引用:ウ・ヴェーップッラ著「南方仏教基本聖典」より)

ゴータマ・ブッダはインドの王国の王子として生まれたので、快楽を享受できる環境でありましたが、その環境の中で生老病死の苦しみに気づき、出家して苦行を始めます。しかし、これらの極端の道では解脱できないことを覚ったのです。

11偈は、肉体的な苦行ではありませんが、考え方の苦行、自由な考え方を規制するもの、ある考え方に執着する極端説をしめしています。

12偈は、享楽を推奨しているという点で、極端説なのです。

13偈では、二つの極端説をよく観察すべきことを述べています。

14偈では、二つの極端説をよく観察した賢者は、極端説に固執しないので、思い上がらないのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 10偈

10 すでに得たものと、これから得られるはずのものと___この二つは塵ほこりであり、病であると知って、心を安定統一した智者は、それを捨てよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

中部経典131「賢善一喜経」に、次のような偈があります。その始めの部分を引用します。
(以下引用)

過去を追いゆくことなかれ
未来を願いゆくことなかれ
過去はすでにすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

(以上引用:片山一良訳)

「すでに得たもの」とは、過去のものです。
「これから得られるはずのもの」とは、未来のものです。

今回の10偈では、人々は過去や未来に執著して苦しんでいるので、それらを「塵ほこり」や「病」であると表現しているのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 9偈

9 この世の人々は慢心をもっていて、つねに慢心にへばりつかれている。悪い見解にとりつかれては、努力しても生死流転を超えることはできない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

実は、昨日引用しましたパーリ語のウダーナ(感興のことば)の偈の続きはつぎの通りです。
(以下引用)
この人々は驕慢(きょうまん)に入りこみ、驕慢につなきとめられ、驕慢に縛りつけられ、誤った見解に空しく努力するだけで、輪廻(りんね)を越えることができない、と。
(以上引用)

ですから、「この世の人々」とは、自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている人々を指しているのです。このような人々は慢心をもっているというのです。

「自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている」ことが、悪い見解であり、誤った見解なのです。

このような人々は、輪廻を脱出できないで、苦しみの生老病死を繰り返すのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 7偈、8偈

7 人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを或る人々は知らない。実にかれらはそれを(身に刺さった)矢とは見なさない。

8 ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)はサンスクリット語によるものですが、パーリ語仏典にも、ウダーナ(感興のことば)があります。その6章6に次の偈が附されています。参考のために、引用します。「原始仏典8ブッダの詩Ⅱ(講談社)桜部建・訳」より。

(以下引用)
この人々は、「われ」という観念にとらわれ「他」という観念にかかずらっている。ある人々はそれをよく知らず、それをおのれを傷つける矢と見ることがなかった。
注意深くそれを矢であると見る人には「私がする」という思いはない。彼には「他人がする」という思いはない。
(以上引用)

自分と他人を区別する思いは、自我といわれますが、それは心理学の教科書には、子供が大人になるために必要な意識として述べられています。

心理学は自我は正しく発達させるものとしていいますが、仏教では、本来それはないものであると見極め、自我観念が自分も他人も害するものであると説くのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 6偈

6 この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるもののごとくに見られる。愚者らは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。(かれらには)無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この事実は、一足とびには理解できません。

では、どこから始めればよいでしょうか?

自分が見るもの、感じるものが真実かどうか疑問にもつことから探求が始まります。

例えば、自分が食べたものが美味しいと感じても、他人はまずいという場合があります。このときは美味しいものがあるわけではありません。

では、食べ物があるのでしょうか?

例えば、人間はおむすびは食べ物だと思います。しかし、ライオンはどうでしょうか? ライオンにはおむすびは食べ物ではありません。

そこには、食べ物があるわけではないのです。人間が食べ物と思っているだけです。

この究極が、そこに物があると思っていても、そこに物があるわけではないのです。
(この説明も最近では量子論で説明できるようになっていますが、ここでは省略します。)

このように、理屈で説明することができても、納得することはできません。

では、それを納得する、腑に落ちるためには何が必要でしょうか?

それは、発心です。

発心については、SRKWブッダの理法「発心」を参照してください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou026.htm


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 5偈

5 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は稀である。網から離れた鳥のように、天に至って楽しむ人は少ない。 

(ダンマパダ174 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ174の原文からの直訳はつぎのようになります。

この世界は盲目の存在です。少数の者がここで観察します。
鳥が網から自由になるように、少数の者が空にいきます。

「この世の中は暗黒である。」とは、この世の中は無知な者の集まりであるということです。

「ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は稀である。」とは、この世の中(自分と他人)を観察する者は少ないということです。

「天に至って楽しむ人は少ない。」とは、多くの人々は観察しないので、解脱して安楽(ニルヴァーナ)に至る人は少ないということです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 3偈、4偈

3 恥を知らず、烏(からす)の首魁のようにがやがや叫び、厚かましく、図々しい人は、生活し易い。この世では、心の汚れたまま生きて行く。

4 恥を知り、常に清きをもとめ、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮す人は、生活し難い。

(ダンマパダ244 恥を知らず、烏(からす)のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。)

(ダンマパダ245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者(ひと)は、生活し難い。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この世の中が生きづらいと感じている人は少なくないでしょう。そのような人々には二種類があります。この原因を内部に求める人と外部に求める人です。
内部に求める人は自分のせいにします。そのような人々は自分が悪いからだと自分を責めて、苦しみます。ところが数年前のニュースに、そのような人が病院で発達障害であると診断され、病気が原因だと知り、安心されるケースもあると報道されていました。

一方、原因を外部に求める人は、社会や政治が悪いから自分が苦しむのだと考えるのです。このことについて、ここでは詳しく説明できませんが、社会や政治の問題も人々の心の問題の反映であることを知ることが大切なのです。

この偈では観点を変えて、生きづらいと感じている人は恥を知る人であると、そのような人々を励ましているのです。そのような人々は正しく生きようとしている人々なのです。そのような人々は困難に負けずに、常に清きをもとめ、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮してください。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 2偈

2 他人の過失を探し求め、つねに他人を見下(みくだ)して思う人は、卑しい性質が増大する。怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。 

(ダンマパダ253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔っている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

世の中には、同じものは一つもない。それぞれが個性を持っている。しかし、優劣はない。すべて平等です。これが真理です。人々はその真理を知らずに、このように思えないので、人々は悩み苦しむのです。

さて、この偈で述べられているように、他人の過失を探し求め、他人を見下す人は、真理に反する思いを持っていますので、その思いは間違っているのです。間違った思いを持つことを、卑しいというのです。そのような人の行動はうまくいきません。そこで彼らは怒りたけるということになるのです。怒りたける人の心は汚れます。心が清らかになり、心が落ち着き、静かになるということからは離れていくのです。

ダンマパダ253では、そのような人は「真理を見ることから遠く隔っている。」と説かれています。すなわち「優劣はない。すべて平等です。」という真理を理解できなくなるのです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 1偈

1 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかしこの人も自分の過失は、隠してしまう。___狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。 

(ダンマパダ252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。___狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人は自分を基準にして他人を見ます。この時、基準である自分は見ないのです。そのために、自分のことは見がたいのです。

また、その基準はほとんど正しくないのですが、正しいとしていますから、自分の基準に合っていれは過失とは見ないのです。他人から見れば明らかに過失であっても、自分は過失とは思っていません。ですから、自分のことは見がたいのです。

さらに、自分でも過失であるとわかっていても、自分の過失は隠そうとする性癖があります。自己防衛の本能からくるものです。自分に過失があることは危険であると思っているのです。自分を正しく見ることが一番安全であることを知らないのです。

なかなか難しいことではありますが、自分も他人を、ありのままに見て、ありのままに知ることが一番大切なことです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 31偈

31 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。

(ダンマパダ354 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。)

                以上第26章 ニルヴァーナ

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

31偈のコメントを書くに際し、ダンマパダ354の過去の解説を参照しました。
https://76263383.at.webry.info/201007/article_7.html

そこには、この偈の因縁物語が書かれていました。参考にはなりますので、その一部を引用します。

(以下引用)
 この詩ができた因縁物語を前回も前々回にも述べましたが、それを知った方が分かりやすいのです。詳しくは前々回のブログ記事をお読み下さい。あるとき三十三天の神々は、次の四つの疑問を持ちました。①いろいろな布施の中で最高のものは何か?②いろいろな味の中で最高のものは何か?③いろいろな喜びの中で最高のものは何か?④なぜ渇愛の滅尽がすべての苦に勝るのか? 

 神々はいろいろ考えましたが、分かりませんでした。そこで、三十三天の王であるサッカに訊ねました。しかし、サッカ王も分かりませんでした。そこで、神々は仏陀を訊ねました。その時、仏陀は上の詩で答えたということです。

 法施とは、仏法を他人に説き聞かせることです。 法味とは、仏陀の教えを実践、体得して感じるものです。法楽とは、仏陀の教えを実践、体験して感じる喜び、楽しみのことです。

 これらの答えはすべて、人々が涅槃に至るために役に立つ事柄がすべてに優り、すべてに勝つということです。

(以上引用)

この解説は、2010年7月7日に書いたものでした。それは私がスリランカの寺院に雨安居のために出かける前に書いたものです。そのために、読者の皆さんに感想のコメントをお願いしました。多く方がコメントをくださり、教えを説いて与えることはすべての贈与にまさることを実感しました。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 30偈

30 (自分に)ひとしい、あるいはひとしくない生れ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去った。内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、(自分の)覆いを破ってしまった。___卵の膜を破るように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

解脱して、(安らぎ)ニルヴァーナを体験した聖者について語られています。

「(自分に)ひとしい、あるいはひとしくない生れ」とは、ゴータマ・ブッダの生まれたインド地方の人々の意識が心を表面も、深層も拘束していたカースト(身分制度)を意味しています。

聖者はそのような生存をつくり出す諸の形成力(輪廻を繰り返す力)を捨て去ったのです。

この偈の文脈では「内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して」、生存をつくり出す諸の形成力を捨て去ったとなりますが、それだけでは不十分で、因縁によって、善友から法の句を聞くということが必要なのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 29偈

29 これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「これは最上の究極であり」の「これ」は、安らぎ(ニルヴァーナ)のことです。

これは、無上の静けさの境地です。静けさと言えば、音に関することがらですが、この意味するものは音に限らないのです。そこで、「一切の相が滅びてなくなり」と付け加えられているのです。

すなわち、色や形、音、匂い、味、感触、思いなどが無い状態であると言っているのです。

「没することなき解脱の境地」とは、そのような境地がなくなることがないと言っているのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 28偈

28 さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。 

(ダンマパダ351 さとりの究極に達し、恐れること無く、無我で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

さとりの究極に達した人とは、意識的なこだわりも、無意識的はこだわりも、無くなった人です。

これらのこだわりの原因は無知であります。無知によって、こだわる必要のないものをこだわっているのです。

さとりの究極に達した人とは、法の句を聞くという縁によって、知の究極に達しています。そのために、無知がなくなります。無知がなくなることによって、こだわりがなくなるのです。

また、知の究極に達した人は、一切の恐れがなくなっているのです。一切の恐れがなくなったとは、別の言葉で言えば、死ぬことが怖くなくなったということです。いつ死んでもよいと思っているのです。

なぜならば、知の究極を知ってしまったからです。これは一切を知ったということではありません。知の究極を知ったということです。

論語に、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉がありますが、これは究極の知を知ったならば、いつ死んでも満足であるという意味です。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 27偈

27 そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちから、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈も安らぎ(ニルヴァーナ)の説明です。前の26偈で語られた「そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。」は、具体的に「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。」として述べられています。

多くの聖者はその境地を語れないので沈黙し、ただ知るがままに楽しんでいるのですが、少数のブッダは、このように見事に説かれているのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 26偈

26 水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ___、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この26偈も、24偈、25偈に続き、そこの説明、すなわち安らぎ(ニルヴァーナ)の説明です。

水、地、火、風とは、単に水、地、火、風のみを意味するだけではなく、物質を作りだす水的性質、地的性質、火的性質、風的性質も意味しています。具体的に言えば、水とは粘性(ねばり)、地とは硬さ(柔らかさ)、火とは熱(温度、変化)、風とは(動き、量)を意味しているのです。すべての物質は水、地、火、風でできています。そして、これらの体で感じられるものなのです。

「水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ」とは、物質のないところなのです。

「白い光も輝かず」とは、太陽の光が届かないところという意味でしょうが、次に「暗黒も存在しない。」とあるように、光も闇のない世界という人間が考えられない世界なのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 25偈

25 来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。___それが苦しみの終滅であると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

安らぎ(ニルヴァーナ)は言葉では表現できない世界(境地、次元)ですが、ブッダは何とかそれを人々に伝えようとしました。それに向かう人が現れることを望んだからです。

24偈では、名詞を使って行ったのですが、今回は動詞を使って行ったのです。

今朝は、少し安らぎ(ニルヴァーナ)の擬似体験を行なってみましょう。

静かに座って、眼を閉じてください。そして、次のように思ってください。

そこには、すでに有ったものは存在しません。

空間もありません。
太陽もありません。

月もありません。

来ることもありません。

行くこともありません。

生じるものはありません。

無くなるものもありません。

止まっているということもありません。

何ものにもたよっていません。

・・・・・

どうでしょうか? 何か感じられたでしょうか?







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 24偈

24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、23偈の続きです。安らぎ(ニルヴァーナ)は、思考の及ばない静かな境地ですから、具体的には想像することができません。そこで、想像できることを否定するのです。

すでに有ったものが存在しないのです。空はありません。もちろん、陸もありません。当然太陽も月もないのです。そこは異次元なのです。

しかし、ブッダはその境地をよく知っていると述べています。それはよくわかり、感じることができるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 23偈

23 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「それの出離」とは、「生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの」からの出離です。つまりそれからの解脱です。

そこは、思考の及ばない静かな境地であり、苦しみのことがらの止滅した境地であり、つくるはたらきの静まった境地であり、安楽であり、安らぎ(ニルヴァーナ)なのです。

そこと言っても、場所が移動するわけではありません。そこにいて、境地が変わるだけです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 22偈

22 生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、___それは喜ぶに足りない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

生じたもの。
有ったもの。
起ったもの。
作られたもの。
形成されたもの。
常住ならざるもの。
老いと死との集積。(老いるものや死ぬものです。)
虚妄なるもので壊れるもの。
食物の原因から生じたもの。(食べ物を必要とするものです。)

これらのものは、21偈で説かれていた不生なるものではありません。不生なるものは喜ぶに値しません。

喜ぶべきものは、不生なるものなのです。不生なるものを知ったとき、それが不思議ものであり、明るいものであり、最上のものであり、比べることのないものであることがわかるでしょう。

今、台風15号が東京を通過中です。注意が必要ですが、大きなエネルギーがもたらされていることを感じます。救急車のサイレンが聞こえてきました。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 21偈

21 不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈には幾つかの意味のわかりにくい言葉があります。

それらは、不生なるもの、生じたもの、出離、作られざるもの(=無為)、作られたもの(=有為)、解脱などです。

「不生なるもの」は「作られざるもの(=無為)」と同じ意味です。

「生じたもの」は「作られたもの(=有為)」と同じ意味です。

「出離」は「解脱」と同じ意味です。

このように、整理すれは意味は少しわかってきます。

だだ、何が不生なるものかわかりません。人々が通常眼にしているもの、経験しているものは不生なるものではありません。それらは「作られたもの(=有為)」なのです。

「不生なるもの」、「作られざるもの(=無為)」の一つの例は、善友の発する「法の句」であると知れば、「不生なるもの」について、少し理解できるでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 20偈

20 何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)はサンスクリット語によるものですが、パーリ語仏典にも、ウダーナ(感興のことば)があります。その8章4に次の偈が附されています。
「原始仏典8ブッダの詩Ⅱ(講談社)桜部建・訳」より。

(以下引用)
何かに依存している者には動揺がある。
何にも依存しない者に動揺はない。
動揺がなければ安息がある。
安息があれば享楽はない。
享楽がなければ来ることも行くこともない。
来ることも行くこともなければ、死ぬことも生まれることもない。
死ぬことも生まれることもなければ、この世にあるのでも、あの世にあるのでも、両者の中間にあるのでもない。
それこそが苦の終わりである、と。
(以上引用)

人々は何かにすがって、或いは何かにすがろうとして、生きていますが、思い切って何にもすがらないようにして生きたらどうでしょうか。これほど、楽なことはありません。

そんなことは無理だと言う人は、自分は渓谷の吊り橋を渡っているように思っているのですが、実は平坦な大道を歩いているのですよ。大丈夫です。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 18偈、(19偈)

18 (1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

19 (訳文は18に同じ)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

SRKWブッダの電子書籍「仏教の真髄」の4章は「四聖諦」ですが、始めの部分を引用させていただきます。

(以下引用)

四聖諦とは

四聖諦とは、四つの聖なる真理という意味である。通常、苦・集・滅・道の四つを挙げる。そ れぞれ、次のように要約される。

苦諦:苦があるという真理
集諦:苦には原因があるという真理
滅諦:苦は滅することができるという真理
道諦:苦を滅する道が存在するという真理

仏たちがこれらを説くのは、人々(衆生)が苦に安住していながら、そのことについての自覚 がないことを憂えてのことである。仏たちには苦は存在しない。そして、人々(衆生)もまた覚 れば苦を抜くことができ、そのことそれ自体は保証されている。四聖諦は、それが誰にとっても そうであることを説くのである。

素質豊かな人は、これだけ聞いただけで覚りを求める心を起こすだろう。そのような人は四聖諦についてこれ以上追求する必要はない。四聖諦は、人々(衆生)に覚りを求める心を起こさせ ることを目的として説かれたものだからである。それで原始仏典では四聖諦そのものはあまり登 場しない。すなわち、原始仏典の舞台はサンガ(僧伽)が中心であり、サンガ(僧伽)に集う人 々はすでに覚りを求める心を起こした人々であるので敢えて四聖諦を説く必要がなかったので ある。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 17偈

17 見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものと知り、また識別されたことは識別されただけのものと知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日、表象作用と感受作用と識別作用については、明日掲載する予定の17偈で、もう少し具体的に説かれていますと述べましたが、この偈には、表象という言葉も、感受という言葉も出てきません。

そこで、まずその辺の説明から始めます。

表象作用とは、感受されたもの或いは考えたことを心にイメージすることです。感受とは外界からの刺激を受け入れることです。

表象作用の特徴は、見られたことは見られただけのもの、聞かれたことは聞かれただけのもの、考えられたことを、それだけにせず、それらに関する事柄を次々にイメージして、その連鎖が続くことです。この連鎖は、個人の経験、記憶に基づいており、非常に主観的なものなのです。

そして、この主観的なイメージの連鎖にもとづいて、ある事柄を他から区別する識別作用が働きます。このような識別は事実に反するために、人間は苦しむことになるのです。

これとは逆に、見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものと知り、また識別されたことは識別されただけのものと知ったならば、事実に基づく識別ですので、苦しみが終滅するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 16偈

16 身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫のこの偈の注には、「ここでは五蘊のうちの色・受・想・識に言及しているが、行に言及していないから、五蘊の説の確立する以前の段階の思想をしめしている。」と記されてあります。

身体が色で、表象作用が想で、感受作用が受で、識別作用が識です。たしかに行は書いてありませんが、表象作用と感受作用とを静められれば、識別作用は消えるでしょう。

識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅するのです。

「身体を壊(やぶ)り」について、仏教は苦行をすすめてはいませんから、身体を壊せと言っているわけではありません。

表象作用と感受作用と識別作用については、明日掲載する予定の17偈で、もう少し具体的に説かれています。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 15偈

15 この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れをおさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前の14偈で、「妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅する」と説かれていましたが、このことが解るのは容易ではないのです。確認しておきますが、妄執というものは自分の内部の要因です。

人々は苦しみは外的な要因で起こると思っています。端的に言えば、お金がないから苦しいと思っています。しかし、お金がないから苦しんでいるのではありません。お金がないと困ると思っているから苦しんでいるのです。それが解れば、苦しみはなくなります。

お金がないと困ると思わなければいいのですから。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 14偈

14 不動の真理は見難い。見易いものの真相を洞察して、妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅すると説かれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「不動の真理は見難い。」・・・不動の真理は心の中にあります。しかし、心は極めて見難いものです。ダンマパダ36には次のように説かれています。

「心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。」

今回の偈では、不動の真理は見難いから、「見易いものの真相を洞察して」としてあります。見易いものは何でしょうか? 

見易いものは他人なのです。私たちは他人について、いろいろな思いを持ち、称賛することもありますが、あれこれ批判するのです。これらを簡単い行います。また、これらはすべて自分の価値観にもとづいて行われているのです。

これらの思いはすべて自分の思いの反映なのです。他人に対して悪意を持たない人は、他人が悪意をもっていることに気づけません。逆に、他人に対してすぐ悪意を持つ人は他人の悪意にすぐ気づくのです。他人は自分の鏡であることがわかります。

さて、不動の真理を知ろうとする人は、見易いものの真相、すなわち、他人の心を洞察して、これは自分の心を洞察することになりますが、そうすると他人と自分の心の苦しみの原因がわかってきます。それは妄執なのです。他人と自分の妄執を見る人は、妄執は消滅するのです。妄執が心を苦しめていることを知るからです。妄執が消滅すると苦しみが終滅するのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) 13偈(再)

13 前にはあったが、そのときは無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は昨日の13偈を再掲します。いかがだったでしょうか? この偈の意味がわかりましたか?

わからなかった方のために解説します。

まず、「前に」の意味です。前とは解脱の前ということです。書いてくれなければわからないじゃないかと思われるでしょうが、ブッダが説かれることはすべて覚りや解脱や安らぎ(ニルヴァーナ)に関することがらなのです。それ以外のことはありません。ですから、前にと言われれば、解脱の前にということです。

前にあったものとは何でしょうか? 解脱していない方は、現在、今の状態です。言葉にする前に、感情型の人は今の気分を感じてください。感覚型の人は今の感覚を感じて下さい。直感型の人は今のイメージを浮かべて下さい。思考型の人は言葉にして下さい。

前にあったものを言葉で表現してみましょう。情欲、怒り、迷い、不安、恐怖などです。

では、解脱の前には無かったが、解脱したときあったもの何でしょうか? これは解脱してない方にはわからないでしょうが、だだ解脱する前にあったものが消えた状態をイメージすることは、ある程度理解できるでしょう。しかし、これは解脱した後にわかることとはまったく異なるものです。

言葉で表現すれば、情欲、怒り、迷い、恐怖など消えた状態ですが、一応、安らぎ(ニルヴァーナ)というのです。

では、最後に「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とはなんでしょうか?

言葉で言えば、私(我)です。これは解脱以前にはわからないことですが、解脱以後にははっきりとわかります。