#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 40偈

40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

                              以上第27章 観察


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈はわかりにくいかもしれませんが、すなおに読んでいきましょう。

「ここなる人」とは、ある人ということです。「ある人が苦しみを見ないということは」、つまりこの人は衆生です。

訳者がカッコで補った(個人存在の諸要素の集合が)は、色受想行識のこと、つまり個人の存在がアートマン(我、自己)だと考えることです。

「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、」これがわかり難くしているのですが、これを「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るべきときに、」とすれば、わかり易くなるでしょう。解脱した覚者は、「(すべてが)苦しみであると明らかに見る」のです。

「ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。」とは、衆生は「何がアートマン(我、自己)であるか」と、つねにさらに吟味して見るということです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 39偈

39 単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか? すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか? 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか? 何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

単にすがたを見る人とは覚者です。覚者はありのままにすがたを見ているので、すがたをさらに吟味して見る必要がないのです。

すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか?

「すがたを見ない人」とは衆生です。衆生はすがたをさらに吟味して見る必要を感じていないのです。

何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?

覚者には智慧があります。智慧があるとき、すがたをさらに吟味して見ることはないのです。

何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

衆生には智慧がありません。智慧がないときも、すがたをさらに吟味して見ることが無いのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 37偈、38偈

37 すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。ここに両者の異なっていることが説かれる。昼が夜と異なっているようなものである。両者が合することは有り得ない。

38 もしすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るこということは無い。またもし単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。ここの人は、単にすがたを見るだけであって、すがたをさらに吟味して見るということは無い。しかしすがたをさらに吟味して見る人は、つねにすがたを見ることがない。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

37偈と38偈は同じ趣旨なので、同時に掲載しました。

「単にすがたを見ること」と「さらに吟味して見ること」は異なることが述べられています。

「単にすがたを見ること」とは、ありのままのすがたを見ることです。しかし、衆生にはこれはできないのです。第一印象に近いのですが、衆生はすぐにその像が変貌するのです。

「さらに吟味して見ること」とは、一般的には吟味してみることは推奨されることですが、衆生は吟味すればするほど、自分の思いを付け加え、ありのままのすがたから離れるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 36偈

36 見る人は、(他の)見る人々を見、また(他の)見ない人々をも見る。(しかし)見ない人は、(他の)見る人々をも、また見ない人々をも見ない。

(テーラガーター61 (真理を)見る者は、(真理を)見る(他)人を見、また(真理を)見ない人をも見る。しかし、(真理を)見ない者は、(真理を)見る(他)人を見ないし、また(真理を)見ない人をも見ない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、普通に読めば、「見る」の目的語がありませんので、何を見るのかわかりません。しかし、ブッダは常に人が覚る為に必要な言葉を語っているのだとわかれば、おのずと知れるものなのです。

テーラガーター61では、訳者がカッコで(真理を)と補っていますので、理解しやすくなっています。

訳者が補った真理という言葉は、法(ダルマ)あるいは真実という言葉でもよいのです。ですから、ここでは「見る人」とは覚った人(=覚者、仏)であり、「見ない人々」とは凡夫、衆生のことです。また、「見る」とは「理解する」という意味です。

36偈を書き換えると、次のようになります。

覚者は他の覚者を理解し、また他の衆生をも理解する。しかし、衆生は他の覚者をも理解しないし、また衆生をも理解しない。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 35偈

35 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよって、あらゆる苦悩から免れる。

(ダンマパダ192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

31偈、32偈のコメントに、「人々の恐怖はどこから来るのでしょうか?」と書きました。しかし、まだその解答を明らかにしていません。

今回はそれについて書いてみます。

ゴータマ・ブッダのおられた時、学生アジタさんがブッダにいくつか質問しましたが、その一つに「世間の大きな恐怖は何でしょうか?」という質問がありました。それがスッタニパータの第5章2「学生アジタの質問」に書かれています。その質問に対して、ブッダは「苦悩が世間の大きな恐怖である。」と答えました。人々は苦悩(苦しみ)を恐れ、それを避けながら生きているのです。つまり、苦悩(苦しみ)から恐怖がくるのです。

苦悩(苦しみ)から免れるものが、安らかなよりどころなのです。

苦悩(苦しみ)から免れるもの、それは何か? 四聖諦なのです。四聖諦を理解し、実践することで苦悩(苦しみ)から免れるからです。

山々、林、園、樹木、霊樹などをたよりにしても、苦悩(苦しみ)から免れることができないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 33偈、34偈

33 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、明らかな知慧をもって、四つの尊い真理を見るときに___  

34 すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの部分よりなる尊い道(八聖道)とを(見るときに)、

(ダンマパダ190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。___(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八すなわち聖道)とを(見る)。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)が、安らかなよりどころなのです。

仏、法、僧について、その本質について六祖慧能は「仏は自覚であり、法は正義であり、僧は清浄である」と解説しています。
では、なぜ仏法僧が安らかなよりどころなのでしょうか?

仏法僧に帰依することで、四つの尊い真理(四聖諦)を知ることができるからです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 31偈、32偈

31 多くの人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹などをたよろうとする。 

32 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによっては、あらゆる苦悩から免れることはできない。

(ダンマパダ188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。)

(ダンマパダ189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免(まぬが)れることはできない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人々の恐怖はどこから来るのでしょうか?

人々は、それを知らないから、何かに守ってもらおうとするのです。
生まれるとすぐ、不安を感じると、お母さんに頼って守ってもらってきたからです。
ですから、大人になっても、恐怖を感じると、何か頼ろうとするのです。
恐怖はどこかから来るかを知らずに、自分より大きな頼れそうなもの頼るのです。
それらが、山々、林、園、樹木、霊樹などなのです。

「しかしこれは安らかなよりどころではない。」のです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 30偈

30 青い幌(ほろ)をまとい、白い傘で覆われ、輻(や)が一つしかない車が回転して来る。結びつける紐もなく、軛(くびき)に結ぶ綱もなく、悩まされることなく、やって来るのを見よ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の訳注には、「『出曜経』によると、「輻(や)が一つしかない車」とは、仏の説かれた「微妙の法」のことを言うのである。」と記されています。

「回転」とは説法をすることです。

輪廻の世界に結びつけるものはなく、自由を拘束する執著もなく、それゆえに悩まされることはない方を見なさいとということです。

だから、何ですか?と問われれば、そのような方がおられるのです。だからあなたもそのような方になれるということです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 29偈

29 愛欲の園からも離れて、愛欲の林から脱している人々からも離れているのに、また愛欲の林に向かって走る。___この人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向かって走るのである。 

(ダンマパダ344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免(のが)れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ344については、以前解説しました。その一つを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200810/article_19.html

(以下引用)
 この詩については初めに、この詩の出来た因縁物語を紹介しましょう。

 「マハーカッサパ長老の弟子にある比丘がいました。その比丘は修行して第四禅定の段階まで達することができるようになりました。しかし、ある日彼は托鉢をしている最中に一人の婦人を見た時、急に激しい情欲が生じました。それに気付いた彼は、修行の未熟さに強いショックを受け、サンガを去って還俗しました。以降いろいろな職業につきましたが、うまくいかず、盗賊の起こした事件に巻き込まれて、死刑の判決を受けました。

 刑場につれていかれ行かれる彼を、 托鉢中のカッサパ長老が見て、『昔の修行を思い出すのだ。』と声をかけました。長老の声に彼は昔の修行時代を思い出し、刑場において第四禅定の冥想に入りました。死刑執行人たちは彼の清々しい姿を見て、『彼には死の恐怖がない』と畏怖を感じました。このことが王に報告され、再吟味が行われ、彼の無罪が判明しました。解放された彼に釈尊は上の詩を述べ、還俗の愚かを説きました。この説法により彼は預流果を得て、許されて、再びサンガに入団した後、阿羅漢果を得ました。」(北嶋泰観 訳注「パーリ語仏典ダンマパダ」377~378ページ)

 「欲の林からぬけながら欲の林に走るこむ」
 「欲の林」とは世俗のことです。世俗は欲の誘惑が多く、しがらみが多く、修行をするには困難な条件が多いのです。「欲の林をぬけながら」はそのような世俗のしがらみから抜け出して、出家することです。出家の生活とは世俗の生活と比べるとわずらわしいことが少ないのです。例えば、衣服で言えば衣だけですから、何をきるか迷うこともありません。食べ物も托鉢をして得たものを食べるだけですから、何を食べるかわずらう必要がありません。
 「欲の林に走りこむ」はせっかく出家してわずらわしい生活の少ない条件ができたのに、また悩み苦しみの多い世俗に戻ることです。出家を止めること、還俗することです。

 この因縁物語の比丘のように、幸福な生活はできる筈はなく、死刑犯に間違えられしまうようなことになるのです。一度は出家までした人にとっては本当の愚かなことなのです。そのきっかけはほんの一瞬のこともあります。このブログで9月5日に書いたダンマパダ284番の詩は参考になりますので是非参照ください。http://76263383.at.webry.info/200809/article_5.html

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 28偈

28 上にも下にも全く情欲を離れた人は、「われはこれである」と観ずることが無いので、このように解脱して、未だ渡ったことのない流れを、この世で渡り、再び(迷いのうちに)生まれことがないであろう。 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「上にも下にも」だけでは意味がわかりにくいでしょうが、これは東西南北上下のことです。すなわち、一切に関してということです。

「情欲を離れた人」の「情欲」とは、不必要な欲と考えればよいでしょう。

「われはこれである」について。文字通りに読めば、凡夫はこのように思うことはないでしょう。そうではなくて、「これはわれのものである」ならばわかるでしょう。

しかし、全く情欲を離れた人(解脱した人)は、自分という思いがなくなるので、「われはこれである」と観ずることが無いのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 27偈

27 諸の欲望に執著し、つねに迷っている者どもは、束縛のうちに過ちを見ることが無い。束縛の執著にとらわれいる者どもは、広がった大きな流れを、決して渡ることがないであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)はサンスクリット語によるものですが、パーリ語仏典にも、ウダーナ(感興のことば)があります。その7章3に次の偈が附されています。参考のために、引用します。「原始仏典8ブッダの詩Ⅱ(講談社)桜部建・訳」より。

(以下引用)
もろもろの愛欲に執著し、愛欲に愛著する人々は、人の心を五官の対象に結びつける煩悩に、過ちあるをみない。そいう煩悩に愛著している人々は、けっして広く大きな水流を渡るこtがないであろうから、と。
(以上引用)

「束縛のうちに過ちを見ることが無い。」とは、「人の心を五官の対象に結びつける煩悩に、過ちあるをみない。」ということがわかります。

過ちを過ちとみなければ、解脱することがないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 21偈、22偈

21 見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を! それは愚人を迷わすには足るが、彼岸を求める人々を迷わすことはできない。

22 見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を! それは愚人を迷わすには足るが、賢者はそれに対する執著を離れる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

20偈で述べられた「粉飾された形体」について、「宝石や腕輪で粉飾された」と具体的に説明されています。

愚人はそれらを求めているので、迷わされるのです。

彼岸を求める人々や賢者はそのようなものを求めていませんから、そのようなものに迷わされないのです。

その人の求めるものによって迷わされるのです。何も求めない人は、何ものにも迷わされることがないのです。

尚、最後にお知らせです。22A、22B、23、24、25、26、26A、26B、26C、26Dの偈がありますが、今回の偈と同様の趣旨ですので、掲載を省略します。