#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 41偈(つづき)

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。                        

                              以上第27章 観察

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

41偈の「つくり出されたもの」の逆のことば「不生 〜作られざるもの」について、前回のブログ記事で紹介しました「覚りの境地(2019改訂版)」に解説がありますので、それも引用させていただきます。

(以下引用)

不生 〜作られざるもの

時としてこの世に不生なるものが出現し、それを覚知する人があるゆえに次の真実が明 らめられる。
『人が不生なるものの真実とその真相を知ったとき、彼の一切の苦悩は終滅する。一切の苦 悩を滅した仏は不生なるものの実在を知る。一切を覚知した仏は生死(=無常、=作られたもの)のあ りさまを知るのである。』
”一切”と名づく縁起の中にあって識別作用に翻弄されている人々にとって、縁起はまさしく実 在のものであると感じられるだろう。しかしながら、不生なるものを識る人(つまりすでに苦が縁起せず、苦の源泉たる識別作用を滅ぼすに至った覚者)は、縁起が作られたも の(=生じたもの)に他ならないことを知っている。そうしてもろもろの仏は、解脱の理法を、す なわち生じたものからの出離を語るのである。
『作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為、=無常)から解脱する。』
これが覚りに向けた修行の本質であり、修行論を示唆するものである。
したがって、縁起を「常住不変の本質」の対義として想定されるものであると考えることそ れ自体は大過ないことである。なんとなれば、(論としては完全ではないが)この考えに従い修 行者が、
『常住不変なるものを求めるのではなく、作られたもの(=有為)からの解脱を願う。』ならは ゙それはまさしくすぐれた考えとなるからである。さて、
『世に出現した不生なるものを知り、その真実の意味を覚知する人があるならば、かれの一 切の苦悩は終滅する。』
先ほどとは一部表現を変えたが、これが解脱の真相である。
ところで、この不生なるものの本質とは何であるか? もしそれを問う人があるならば、 次のように答えなければならない。
『この不生なるものの本質とは、ことに臨んだ局面における一なる答えのことである。そ れを
智慧と呼ぶ。』
すなわち、その答えは時と場所と相手とを選ばないものであり、ことに臨んだその局面 における究極の、唯一の完全な答えである。その答えは、誰であってもその局面に臨んだ ならば究極においてはその答えに到達すると確信されるものである。その答えは、遠い未来 においてもその答えの唯一性が決して損なわれることがないものである。その答えは作ら れたものではなく作られざるものである。すなわち、それは人智を超えたものであると 知られるものである。人を超えた存在たる仏だけがそれをそれだと知ることがで きる。それゆえにこの不生なるものの本質を仏智とも言う。
この世のことがらは、総じて作られたもの(=生じたもの)である。つまり縁起している 。しかしながら、そうでありながら時として作られざるもの(=無為)が世に出現する。 人がその作られざるものを眼のあたりにして、それがまさしく不生なるものであると識 ったならば、かれは智慧を覚知したのである。ことに臨んだその局面はそれを人為的に呼ひ ゙起こすことはできないが、修行者の極近くに出現すると期待され得るものであり、そうでなければ修行者とはならない。
円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、気をつけて遍歴せよ。因縁によって出現する この不生なるものの真相を見てまごうことなき覚りに到達せよ。それを為し遂げたとき、人 は縁起を超克し、作られたものによって生じる一切の苦悩を完全に滅するからである。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 41偈

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。                        

                              以上第27章 観察

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

41偈は、「第27章 観察」のまとめの偈であります。

この偈の解説に際して、みなさまにお知らせしたいことがあります。
それは、SRKWブッダが電子書籍として発売されていました「覚りの境地」が、紙の本「覚りの境地(2019改訂版)」として出版されることになり、11月11日からアマゾンで購入できるようになりました。なお、この改訂版は電子書籍としては11月1日から購入できるようになるということです。

この中から、「解脱の本体(名称と形態:nama-rupa)」は今回の偈を詳しく理解する上で重要であるので、
引用させて頂きます。

(以下引用)

解脱の本体(名称と形態:nama-rupa)

あるものがあるゆえに苦がある。そのあるものが解脱によって消滅するゆえに苦の終滅 を見る。それが解脱の真相である。
では、何が消滅すると言うのであろうか? ”あるもの”とは何であろうか? あったものが消滅するとはどういうことであろうか? あったものとは”在ったもの”や”有ったもの”ではないのか?
順不同であるが、以下に説明しよう。まず、解脱の本体たるものの正体を明かそう。
すでに解脱した仏は、その消滅したものが苦の体たる”この名称と形態(nama-rupa)”であ ると見極める。すなわち、人(衆生)は名称と形態(nama-rupa)が心と癒着しているゆえにそこに 苦の要因が入り込み、それによって苦が感受されていたのだと知るのである。解脱によ って苦の体が消滅する。すると、苦悩が起こるよすががなくなる。したがって苦悩が 生じなくなるのである。ここに至って、仏は苦の体が名称と形態であったことを知る のである。
ところで、今述べたように名称と形態そのものが苦を生じているのではない。解脱す る前にはあったもの、すなわちこの名称と形態(nama-rupa)に苦の要因が結びついて、結果と して苦が生じるのである。したがって、苦の体と苦の要因とは別に論じなければなら ないものである。
さらに説明を困難にしているのは、この名称と形態(nama-rupa)とは解脱以前の名称と形態その もの全体ではなく、苦を生じるように働く、いわば悪しき名称と形態の部分の意である 。ゆえにこれを”この名称と形態(nama-rupa)”と書く。つまり解脱しても名称と形態は機能として 残るのであるが、その残った名称と形態には苦が生じないということである。先に”在っ たもの”でもなく”有ったもの”でもなく、”あったもの”(あるものがあるのある)と表現したの はこれがその理由である。つまり、解脱によって特定のこれが、あるいはこの部分が消滅 したという性質のものではないからである。
なお、ここでは苦の体について述べ、苦の要因については章をあらためて説明したい。
すでに述べたように、解脱とは苦の体たる名称と形態(nama-rupa)を消滅せしめる現象を 指す。と言うのは、苦の要因そのものを消滅せしめることはできないからである。苦の要因 は世に蔓延しており、その要因すべてを消すことはできない。苦の要因は人の外にあるものだからである。しかし、苦の体たる”この名称と形態(nama-rupa)”を消滅せしめることは出 来る。それらは人のいわば内部にあるものだからである。それが出来るということが 法(ダルマ)であり、法によって苦の体が消滅したことを解脱と称するのである。名称と形 態についてさらに詳しく述べよう。
名称と形態(nama-rupa:名色と略記することもある)とは、ユング心理学(分析心理学)に代表さ れる深層心理学の言葉を(説明理論として)借りれば「個人的無意識」と「集合的無意識」の作用 のことだ言って大過ないと知られる。これらのような言葉が出てくるのは、覚りの境地 に至った人が分析的に人の心を大きく3つの階層に分けて考えた結果である。すなわち、人 々(衆生)が自分自身だと思っている自我意識やペルソナの作用が表層意識としての自我(自 我コンプレックス)であり、その下層に位置する自我の他の可能性であるシャドウや抑圧 されたコンプレックス人格などを含む個人的無意識にあたるのが「名称(nama)」だと言 える。さらに、それらの下部層に位置して元型(アーキタイプ)群およびグレートマザーという 形で人類全体を貫いて共通に存在する集合的無意識にあたるのが「形態(rupa)」である。
これらについて、原始仏典(『テーリーガーター:尼僧の告白』)では名称を「刀」、形態を「串 」のようだと形容していて、言い得て妙である。確かに、名称作用は自我を脅かしてこころ を動揺させる刀のようなものであり、ユング心理学に言うシャドウやコンプレックス人 格が自我に及ぼす作用をうまく表現している。一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセ ンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を 貫くように投影されていて、個々人が有する縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与 える集合的こころ(として認知される心的作用)のことであるから、串(大勢を貫くもの)という形 容は実に的を射ている。つまり、釈尊の時代から名称と形態(nama-rupa)という一種の階層を成し た心の構造が認められていたと言え、解脱によってそれらが消滅するという認識があった ことをこの譬喩の存在は根拠づけている。
なお、誤解を恐れず、名称と形態を現代的な言葉で平易に表現するならば次のように言っ てよいであろう。
名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)
ここで、心的余韻作用とは、肯定的にはたとえば思い出の味やなつかしい心地よさなどと して現れる認識のことである。また否定的には嫌な思い出にもとづく不快な感情や嫌悪、ト ラウマによる自己制御の困難などとして現れるそれである。そしてもう一つの心的変換・増 幅作用とは、肯定的には例えば極微量の出し汁の作用による味噌汁の旨みの認識や芸術的映画 や音楽を鑑賞したときに生じる胸震わせる感動などとして現れるこころ細やかな快の認識のことである。また否定的には理由もなくわきあがる怒りや恐怖、焦燥感などのいわば心 的アレルギー作用として現れるそれである。
やや強引に譬えるならば、心的余韻作用とは幻の如きものであり、心的変換・増幅作用とは 錯覚の如きものであると言ってよいであろう。そして、この名称と形態(nama-rupa)こそが、 我ありという認識の根元(=我執)を為しているものなのであるが、実はこれらは自性ならざる もの、それ単独では存在しない泡沫のようなものであると知られるのである。
さらに、名称と形態(nama-rupa)をこころを覆う障害としてとらえた般若心経では、それらを ケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と呼び、ケイが引っ掛かり、ゲがさまたげるものであると している。不快な心的余韻作用は、対象に関するまさに「心の引っ掛かり」であるし、心的ア レルギー作用は目前の行動に対してまさにこころをさまたげるもの(心奥の障害)と言えるであ ろう。それは、たとえば特定の食べ物アレルギーのある人が、目の前に出された食事の中に アレルゲン(その人におけるアレルギーの原因物質)が含まれているのではないかと疑い、そ れを口に入れることをためらい、食べる前から恐れおののくようなものである。と言うのは 、アレルゲンが含まれているかどうかは実際に食べてみなければ分からないことで あるし、食べてアレルギー症状が現れたときには時すでに遅く、アレルギーの壮絶な苦し みを生じることがもう避けられないこととなる。このため、アレルギー体質の人は、目の前 に出された食事を、何も考えずに摂ることが出来なくなってしまうであろう。あたりまえ のことが、あたりまえに出来なくなってしまう。これは辛いことであり、まさにこころのさま たげとなる。
それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と名付くべき心的障害がつねにつ きまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如)を働かせることが出来なくなって いるのだと考えなければならない。そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころを あたりまえに表出できなくなっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいな いのである。この人(衆生)が自力では知り難きこころの障害の根元こそが、”この名称と形 態(nama-rupa)”に他ならない。ゆえにこれらを苦の体と言う。
ところで、くり返しの説明になるが”この名称と形態(nama-rupa)”を滅尽することが即ち解 脱であり、その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)である。このため、人は解脱す るとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入ることになる。なぜならば 、衆生である間はこの名称と形態(nama-rupa)にもとづいて起こっていた外界および内界と の関わりによる煩わしき「心的余韻作用」と「心的変換・増幅作用」が解脱によって根こそき ゙に消滅するからである。すなわち、真の禅定とは、一旦揺れ動いたこころが元どおりに 復帰する心の過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境 地を指して言う言葉なのである。

なお、名称と形態(nama-rupa)によって生じるそれぞれの心的作用は一般に表象作用と感受 作用として知られている。また、解脱によって滅びる”この名称と形態(nama-rupa)”によって 生じる煩わしき心的作用を”識別作用”と呼ぶ。つまり、識別作用を滅することが解脱に他なら ない。

(以上引用)