#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 7偈

7 (自分が)悪いことをしないようにさせ、罪過(つみとが)を指し示し過(あやま)ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、そのような(自分の)過ちを制してくれる賢い人につねにつき従え。___そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

(ダンマパダ76 (おのが)罪過(つみとが)を指摘し過(あやま)ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。____隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ76について、私が初めに解説した記事をブログにかいたのは、2009年2月22日でした。なつかしいので引用します。
https://76263383.at.webry.info/200902/article_22.html

(以下引用)

自分の誤りや欠点は自分では気が付かないものです。現在の自分の感情にも気が付かない場合が多いのです。私たちの注意力は外側に向いていて、自分自身には向いていないからです。

 私は以前、自分自身に対して鈍感で、自分が怒りっぽい人間だとは思っていませんでした。自分が怒っていることにも気がつきませんでした。人から「怒っているよ」と言われても、「怒ってない」と言っていました。でも、その時身体が震えていたのです。それほど怒っているのに自分では気が付かないのです。さすがに、しばらくして、自分が怒っていることに気がつき、愕然としました。自分のことがこれほどまでに分からないのだと。それが切っ掛けで、ヴィッパッサナー瞑想などを始めるようになったのです。

 このように、私ほど酷くはないでしょうが、一部の内省的な人を除いて、多くの人は自分のことが分かっていませんから、自分の誤りや欠点を教えてくれる人はありがたいのです。自分に対して敵意を持つ人は、自分を攻撃して来る言葉、欠点を指摘するものがあれば、それはありがたいものです。ましてや親切に欠点や誤りを教えてくれる人は、本当に大切な宝物なのです。

 では、このように、当然と思われることを釈尊は詩の形で改めて述べておられるのでしょうか?
実は、私たちは自分の誤りや欠点を指摘されるのは嫌なのです。しかも自分が気が付いてない誤りや欠点については、そのようなことはないと反発します。自分のことを誉めてくれる人や欠点を言わない人には近づいて親しみますが、誤りや欠点を指摘する人から遠ざかり、親しみません。誤りを正し、欠点を修正するためには、矛盾する態度です。ですから、釈尊はあえて、過りを教えてくれる智慧のある賢者に親しむならば、善いことがあり、悪いことはないと教えておられるのです。

(以上引用)