#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 39偈、40偈

39 また悪いことをして、善いことをしないならば、悪いことをした人は、禍のもとを身に受けて、福徳を捨てて、この世で死を恐れる。___大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人のように。

40 善いことをして、悪いことをしないならば、善い人々が福徳のもとを昔(むかし)行なったのであっても、決して死を恐れない。___堅固な舟で河を渡る人々のように。 

以上第28章 悪

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ブッダの比喩はいつも素晴らしい。説かれたことが生き生きと理解できます。

大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人の恐怖はどのようなものでしょうか。舟は沈み、死を待つ以外にないのでしょう。

一方、善いことをして、悪いことをしない人は、堅固な舟で河を渡っているのですから、嵐が来ても大丈夫ですし、そのような人が舟で河を渡るときには嵐がこないのです。彼は快適な舟の旅を楽しんでいるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 38偈

38 善いことをしたならば、ひとは快(こころよ)く楽しむ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは快く楽しむ。人に知られずにしたことであっても、ひとは快く楽しむ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに快く楽しむ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、昨日掲載した37偈の「ひとは喜ぶ。」が「ひとは快く楽しむ。」に変わったものです。

「喜ぶ」と「快く楽しむ」とどう違うのか?

善いことをした時の気持ちは、「喜ぶ」とも「快く楽しむ」とも表現できますが、実際に自分が善いことをして、それを感じてください。もっと素晴らしい言葉が出てくるかもしれません。あるいはそれを言葉にできないかもしれません。しかし、何かがわかるはずです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 36偈、37偈

36 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

37 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、先日掲載した32偈の「その報いがあるのだから、ひとは憂える。」の部分が「悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。」となっています。

37偈は、33偈の「その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。」の部分が「幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。」となっています。

「悪いことをした報い」と「善いことをした果報」を、それぞれ少し具体的に述べたものです。

これらの偈を読むと、法界というものを想起せざるを得ません。

法界については、SRKWブッダの感興句「法界の存在」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana119.htm

(以下引用)

【法界の存在】

一大事において法界から法(ダルマ)が出現するということは、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているということである。そして、法界はこの世の悪行も決して見逃さない。それで、善き人は善き処に生まれ、悪しき者は死してのち地獄に堕ちる。

ところで、もし解脱という明らかな現象が無いならば、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているとか、法界はこの世の悪行も決して見逃さないなどとは言えないであろう。しかしながら、解脱がはっきりとした現象である以上、法界の存在とその働きを信じざるを得ないのである。如来は、荒唐無稽のことは説かない。如来は、知り得たことを知り得たままに説くからである。

(以上引用)





  

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 34偈、35偈

34 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

(ダンマパダ15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。)

35 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。

(ダンマパダ16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。悪いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいるでいるでしょうか、そんなことはないはずです。イライラ、ムシャクシャしているのです。それを忘れるために、酒を飲んだり、大騒ぎをしている人もいます。後悔して落ち込んでいる人もいるでしょう。犯罪を犯した人は捕まるかもしれないとビクビクして、不安です。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。つまり、ふたつのところで共に憂えることになるのです。ですから、悪いことはするべきではないのです。

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。善いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいます。なんとなく、心がうきうきします。善いことをして、よかったなと思います。善いことをした人の顔も声も態度も喜びに満ちています。このような人の周りにはやさしい生きものが集まってきます。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。こんな楽しいことはないでしょう。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 32偈、33偈

32 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。その報いがあるのだから、ひとは憂える。

33 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

32偈、33偈の偈も、ゆっくりと声をだして、少なくとも3度、読んでほしい。

悪いことをしたならば、ひとは憂える。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。
秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。
その報いがあるのだから、ひとは憂える。

善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。
人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。
その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。


これらは詩なのだから、その読んだほうがよいのです。少なくともブッダの偈はそうする価値があります。これらの偈を訳された中村元氏の訳はその任にたえるものです。

眼だけで読めば、頭だけで読むことになります。しかし、声を出して読めば、声帯がふるえ、身体が感じます。その声は空気をふるわせ、耳でも感じます。その響きは、世界にひろがります。ですから声を出して読んだほうがよいのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 31偈

31 この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。その果報があるのだから、安心しておれ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

例えば、不安になって、眠れなくなった時など、この偈を思い出してください。自分がした善いことを思い出せない人は、自分が赤ちゃんの時に、お母さんに微笑んだことを想像してください。お母さんはあなたの微笑みを見て、幸せになったのです。これはあなたの始めの善いことです。

もう一度、この偈を声をだして、ゆっくり読んでください。きっと心が落ち着いて、眠れるようになるでしょう。


この世で善いことをしたならば、安心しておれ。

その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、

遠いところでしたことであっても、安心するがよい。

人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。

その果報があるのだから、安心しておれ。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 30偈

30 悪いことをしたときは気をゆるすな。その悪いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、気をゆるすな。秘密のうちにしたことであっても、気をゆるすな。それの報いがあるのだから、気をゆるすな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

30偈で述べられていることは、ダンマパダ127(大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。)ということによります。

しかし、ダンマパダ173で、次のように述べられています。

「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。」

この偈は、以前は殺人鬼であったアングリマーラが、ブッダに出会い、懺悔して、善によってつぐない、解脱した事にちなんんで、説かれたものです。

「気をゆるすな。」とは、「懺悔して、善によってつぐなえ。」ということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 26偈〜29偈

26〜29 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに陥るあろう、___(1)親族の滅亡(ほろび)、(2)財産の損失、(3)国王からの侵略、(4)恐ろしい告げ口、(5)激しい痛み、(6)身体の傷害、(7)重い病い、(8)乱心、また(9)その人の家を火がすっかり焼いてしまう、(10)第十として、聡明な智力がなくなって(老いぼれて)、身がやぶれたのちに、悪いところ(=)地獄に生まれる。

(ダンマパダ137〜140 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに出会うであろう、___(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
感興のことば26偈〜29偈とダンマパダ137〜140の罰の順番は少しことなりますが、内容はほぼ同じです。ダンマパダ137〜140については、10年前の2009年4月6日にその解説を書きました。それを引用します。参考にしてください。
https://76263383.at.webry.info/200904/article_6.html

(以下引用)
 脅しで信仰を強要する宗教がかなりあります。例えば、異教徒の神を信じると地獄に落ちるとか、ある種の食べ物を食べると神の怒りに触れるとかいろいろあります。

 仏教には脅しはありません。もっとも仏教と名乗っている宗教団体はたくさんありますので、その中には、脅しで信仰を強要する団体もあるかもしれません。しかし、釈尊はそのようなことは、一切していませんし、そのようなことは一切言ってはいません。ですから仏教と名乗っていてもそれは、釈尊の教えと無関係の団体です。

 釈尊は真理を述べているのです。その真理は私たちが幸せになる教えなのです。そして、それをよく理解して、実践するように述べられています。決して理解せずに、信じろとは言いません。今回の詩の内容についてもその通りなのです。私たちは直ぐには理解できない所もありますが、よく考えれば分かることなのです。

 私が分かる範囲で説明しましょう。「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」とうなるでしょうか。私たちの心には良心と言われるものがあります。分析すると、慈悲喜捨の心です。すなわち、人々が幸せになってもらいたいという心、困っている人を見ると助けたいと思う心、人の喜びに共感する心、物事を分け隔てなく平等に見る心です。これらの心は人間にはあるのです。もちろん、その心は育てられてなければ小さく、弱いものですが、あるのです。しかも、欲や怒りや無知の心もありますので、その機能は抑えられている場合が多いのです。しかし、良心と言われる慈悲喜捨の心はあります。

 「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」、その良心は、自分を責めることになります。自分の良心に責められた自分の心は、自分の身体を攻撃します。それは、身体の痛みや、傷害、病気など、いずれかの現象をもたらすのです。自分の良心に責められた自分は何事にも自信を持って行動できません。いつも何かやましい心で行動するのです。心は暗くなります。そうすると仕事に失敗するようになり、友達や家族や親族ともうまくいきません。それらの人々の間で喧嘩になるかもしれません。喧嘩に多い、暗い家族の財産は増えることはありません。面白くないので、大酒を飲んだり、馬鹿な無駄使いをしたりするからです。もう詳しく書くことはないでしょう。

 釈尊は、暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうという不正を働く人々の行為の結果を分かりやすいように十にまとめて示してくれているのです。不正を働くと私たちの良心が痛むのです。そうならないように、不正を働かないように注意してください。
(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 23偈、24偈

24 僅かでも悪をしたならば、つねに来世に苦しみを生じ、大きな禍を生じることになる。___毒が腹の中にあるようなものである。

25 僅かでも善いことをしたならば、来世に安楽をもたらし、つねに大きな福楽生じることになる。___穀物が積もり集まったようなものである。(やがてすばらしい果実を生ずるであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人間の行為は、潜在意識に記憶され、自分が忘れていまっていても、それがいつも支配しているということです。

僅かでも悪をした人は、意識できなくとも、それがいつまでも気になって、その人の思いや行為に影響をあたえますから、暗くなり、楽しみを削減します。それは大きな禍です。生まれ変わってもよいことがあるはずはありません。

逆に、僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくなります。それはその人の人生によい影響をあたえます。生まれ変わってもその影響は続きます。

人間は、良いことも、悪いこともしますから、その場合はどうなるのでしょうか考えてください。

僅かでも悪をした人は、暗くなり、楽しくないのですから、また悪をする傾向になります。そのため、悪を続けるのです。それが問題なのです。

僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくありますから、善をする傾向になりますから、問題ありません。

僅かでも悪をした人は、勇気をだして、懺悔してください。

懺悔については、SRKWブッダの理法「懺悔の根底にあるもの」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou315.htm

(以下引用)
【懺悔の根底にあるもの】
懺悔(さんげ)の根底にあるものは、「自分は間違っているのではないか?」と言うことではない。懺悔の根底にあるのは、「自分は恥 ずかしいことをしているのではないか?」と言うことである。他ならぬ自らの行為について省察し、心に問うて、その真実を明からめたとき、解脱の機縁を生じ る。

ただし、修行者は懺悔によって解脱を果たすわけではない。解脱と同時に──おそらく解脱が一瞬早く生じその後──懺悔を生じ得るということである。
(以上引用)




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 21偈、22偈

21 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。 

22 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

(ダンマパダ117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。) 

(ダンマパダ118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、11月1日です。111は、ラッキー・ナンバーというそうです。今日は良いことがあります。
さらに、1111は、エンジェルナンバーといって、幸運の数字というようです。
今までは知りませんでしたが、ユーチューブを見て知りました。

「この世には、何一つ偶然はない。」といわれますから、このようなことを知って置くと、このような数字を見ると、心が明るくなって、本当に本当に良いことがあります。それがたとえ悪いことのように見えても、それが良いことの前兆なのです。

今回、掲載した偈に戻ると、人は悪いことをするとはあります。しかし、それが悪いことだと気がついたら、勇気を出して止めてください。21偈に書いてある通りなのです。

また、善いことをしたら、それを繰り返してください。それが善い習慣になり、あなたに幸運をもたらします。