#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 33偈

33 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸に沿ってさまよっているだけである。

(ダンマパダ85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

SRKWブッダの過去のtwitter歴で、「彼岸に達する人々」に関する言葉を調べて見ました。
次のような言葉がありました。

(以下引用)

すでに慧解脱した覚者(=如来)にとって、覚りは特別な現象では無い。しかしながら、現実には覚る(=解脱する)人は極めて少ない。その本当の理由は不明である。
(2018.1.10)

長く修行したのであるから、仏になってはいないとしてもせめて阿羅漢、少なくとも心解脱者にはなっているだろうと思いたい。その気持ちは理解出来る。しかしながら、世を見るに預流に達している人さえ少ない。これが現実である。

これから真剣に仏道を歩むつもりの人が、生きている間に仏にはなれないにしてもせめて阿羅漢、少なくとも心解脱者にはなりたいと思うのは不当なことでは無い。しかしながら、現実には初期の心解脱に達する人さえ少ない。
(2018.1.11)

この世で実際にニルヴァーナに至る人は、少ない。その本当の理由は不明であるが、推定されることは修行者と称していてもニルヴァーナを真に求めている人は少ないということである。ゆえに、聖求が問われることになる。
(2018.3.11.)

この世で覚り(=解脱)に達する人は、少ない。覚るための修行法が説かれることは無く、予め分かっていることは人は解脱し得るということだけである。しかしながら、ある人々はついに覚る(=解脱する)。彼らは、解脱しようと思い、功徳を積んだからである。
(2018.12.11.)

仏道が広大で、平らか、どこからでも通じており、危険の無い道であるならば、もっと多くの人々が容易に歩み得て、沢山の解脱者(覚者)が出現しても良さそうである。ところが、実際には少ない。
(2019.7.11.)

(以上引用)

面白いことに、SRKWブッダが、このような言葉を呟く日は10日から11日だった。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 29偈〜32偈

29 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知り難いようなものである。

(ダンマパダ93 その人の汚(けが)れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱(げだつ)の境地は空(くう)にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。___空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。)

30 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの行く路のたどり難いようなものである。空飛ぶ鳥の迹のたどりがたいようなものである。


31 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。
 
32 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの行く道はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹のたどりがたいようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回の29偈〜32偈は、前回の25偈〜28偈と同様に、言葉が少し変わっているだけであります。特に、30偈と32偈の違いはほとんど変わりません。どこがちがうか探すのは面白いかもしれません。

さて、「その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく」について、少し解説すれば、衆生であることを終え、この世での生きることに執著することがないということです。いつ死んでもいいという心境です。しかし、死にたいということでもありません。この世が結構楽しく、面白いのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 25偈〜28偈

25 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれらの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。

(ダンマパダ92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。___空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。)

26 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれらの行く路はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。
 
27 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれらの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。 

28 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれらの行く路はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

25偈と26偈の違いは、「足跡」と「行く路」です。その違いの意味は「過去」と「未来」です。

25偈、26偈と27偈、28偈の違いは、「遠ざかり離れること」と「心の安定統一」であります。それぞれの意味は、前者は執著をなくすこと、後者は心が落ち着き静かになることです。

これらの偈に共通する重要な言葉は、「財を蓄えることなく」と「食物についてその本性を知り」です。

財を蓄えるとは、必要以上の物を貯めることですが、これは貪欲と不安があるのです。解脱した人には貪欲はなく、不安がありませんから、財を蓄えることはないのです。

これらの偈で言う食物とは、口から入れる食べ物だけではないのです。エネルギーと考えてください。人間はエネルギーがなければ生きていけません。身体だけではなく、心にも同様です。身体が悪い食べ物を取れば、身体を害します。もちろん、良い食べ物を食べれば、健康になります、心の同様です。心に悪い食べ物(貪欲、怒り、愚かさ)などを取れば、心は害されます。心によいエネルギーをとるようにしてください。それは何か、簡単に言えば功徳を積むことです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 24偈

24 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王と(戒律と邪まな見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

24偈のカッコ内の文は訳者が補ったものです。このカッコを取った原文は次のようになります。

「母と父とをほろぼし、二人の武家の王と二人の博学なバラモンをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。」

これでは、意味がわかりませんが、母、父、二人の武家の王、二人の博学なバラモン、国土、従民というのはあるものを象徴です。

その意味するものを訳者が補っているのですが、2009年7月25日に、ダンマパダ294、295について解説していますので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200907/article_27.html

(以下引用)
「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきます。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解しておきます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っているのか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いです。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからです。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以下引用)

 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 23偈

23 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人___かれこそ実に最上の人である。

(ダンマパダ97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)由なく、欲求を捨て去った人、___かれこそ実に最上の人である。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ97についての2009年3月13日に私が書いた解説は次の通りです。
https://76263383.at.webry.info/200903/article_13.html

(以下引用)

盲信せずに、無為を知り
輪廻のつなぎを断つ人は
法に従い、欲捨てた
彼こそ実に最上人

○この詩から学ぶこと

 この詩ができた因縁物語は次の通りです。釈尊は最終的な悟りに近い三十人の比丘たちに、あることを教えるために、サーリプッタ長老を呼んで、質問しました。「サーリプッタよ、人は私の教える瞑想によって涅槃に到達できることを信じるか?」 それに対してサーリプッタ長老は「尊者よ、私が涅槃に到達できたのは釈尊の言葉をそのまま信じたからではありません。」と答えました。それを聞いて、三十人の比丘たちは驚き、サーリプッタ長老を非難しました。釈尊は「比丘たちよ、誤解してはならない。サーリプッタ長老は瞑想によって涅槃に到達できると答えたのだ。ただし、私の言葉を盲信したからではなく、自分自身でよく学習し、実践によって理解して、盲信ではなく確信して涅槃に到達したのだ。」と説かれたということです。

 仏教では「信」を重要なことと考えています。これは「真理」対する「信」です。具体的には、仏(仏陀)、法(真理)、僧(聖者の僧団)、四聖諦、因果法則などに対する「信」ですが、盲信ではなく、理解に基づく確信なのです。これがないと、自信を持って修行ができないのです。

 無為とは有為の反対の言葉ですが、有為は現象の世界です。ですから、無為は現象世界を超えた涅槃を意味します。無為を知りとは、涅槃に到達して、涅槃の世界を体験したという意味です。
それは、つまり、生命を輪廻に結びつけている煩悩を断ち切ったということです。

 「法に従い」は、直訳すると、「機会を失う」ですが、私は「行いが法に適っていて、善とか悪とかを行うことではない」という意味だと理解しています。そのような人は当然、欲を捨てています。そのような人は阿羅漢ですから、最上の人なのです。

(以上引用)

だいたいこの通りですが、「作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り」とは、もっと具体的に書けば、善知識(善友)から法の句を聞いてとなります。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 22偈

22 われは、迷いの生存のうちに恐ろしさを見、また迷いの生存のうちにさらに破滅を見て、それ故にわたしは迷いの生存を喜ばない。
 わたしは生存の滅亡を(執著して)喜ぶこともない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

衆生(人々)は、迷いの生存に執著して、苦しみながらも喜んでいます。それゆえに、死を恐れ、何としても生きたいと思っているのです。

ブッダは、迷いの生存を喜ぶことが苦であることであると知り、迷いの生存のうちに恐ろしさを見たのです。

そして、ブッダは迷いの生存から、また迷いの生存が生まれ、苦が繰り返される恐ろしさを知ったのです。これが破滅です。それ故に迷いの生存を喜ばないのです。

生存の滅亡とは、死を意味しているのでしょう。単なる死は、迷いの生存を克服することにはなりませんから、死を喜ぶことはないのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 21偈

21 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

(ダンマパダ320 戦場の象が、弓から射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を読んで、ダンマパダ227を思い出します。

「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。」

誰もが人に非難されることは嫌です。人に非難されると落ち込んだり、或いは怒りが現れます。非難された時に現れる嫌な感情も因縁によって現れるのです。因縁によって現れる現象は、いくつかの構成要素で成り立っていますから、その現象を変化させるためには、どれか一つの構成要素を変化させればよいのです。

ネットで検索すれば、落ち込みをなくす方法とか、怒りをなくす方法などいろいろ書かれています。そのうちの一つだけでも実践すれば、非難された時の感情を耐え忍ぶことができます。

例えば、深呼吸する、数を数える、上を見る、おまじないを唱えるなどがあります。

自分の悪い感情をよい感情に変えたいという念いさえあればよいのです。

わたしの最近気に入っているおまじないは「ひふみゆらゆらひふみゆらゆらゆらゆらとふるえ」です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 20偈

20 善人で賢者であり道理を考える人々とだけ交われ。深遠にして大いなる道理を知慧によって洞察せよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(テーラガーター4 善人で賢者であり道理を見る人々とだけ交われ。怠らずに努め、洞察をなすもろもろの賢者は、<深遠にして、見難く、精妙にいして微細である大いなる道理>体得する。)



(中村元訳「仏弟子の告白」岩波文庫より引用しました。)

*法津如来のコメント

「善人で賢者であり道理を考える人々とだけ交われ。」とありますが、実際にはそのような人々とだけ交わることはできません。いろいろな人々と交わります。しかし、そのような人が居られたならば、その人を見逃さないことです。そのような人の言葉を聞くべきです。

特に功徳を積んでいる人には、一大事の因縁により、見た目には善人で賢者とは見えない人の中にも化身(善知識)が現れ、その人の言葉(法の句)を聞くことがあります。その言葉を聞いた人は、その言葉はこの世の言葉ではないと知り、その言葉は法界から来たものだとわかるのです。そこで、その言葉を聞いた人は解脱するのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 19偈

19 善き人々は遠くにいても輝く、___雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない ___夜陰に放たれた矢のように。

(ダンマパダ304 善き人々は遠くにいても輝く、___雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない ___夜陰に放たれた矢のように。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

19偈とダンマパダ304は同じ内容です。ダンマパダ304について、過去に三回解説しました。
2008年9月22日
http://76263383.at.webry.info/200809/article_22.html

2009年7月31日
http://76263383.at.webry.info/200907/article_33.html

2010年6月9日
https://76263383.at.webry.info/201006/article_9.html

いずれの解説も歯切れのわるいものでした。よくわからなかったからです。この偈はブッダの立場から述べられたものです。

「善き人々は遠くにいても輝く」といっても、凡夫にはわからないことなのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 18偈

18 村にせよ、森にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

(ダンマパダ98 村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ98について、2009年3月17日と2010年1月17日に解説のブログを書いています。そのアドレスはそれぞれ次の通りです。
https://76263383.at.webry.info/200903/article_14.html
https://76263383.at.webry.info/201001/article_17.html

これらの解説は、私が比丘であった時のものです。間違っているわけではありませんが、解脱して、如来になってから、この偈を読むと異なる感想があります。

「聖者の住む土地は楽しい。」ということは真実であるということです。聖者はいつも、明るく、楽しいのです。楽しさのエネルギーは伝播します。まわり人々に伝わります。
私は、毎朝ラジオ体操に、近所の運動広場に行きます。初めて3年ほどになりますが、参加する人々が明るくなりました。以前はラジオ体操の歌を歌わなかったのです。音痴の私が大きな声で歌いますので、みんな歌うようになりました。

ラジオ体操の歌の歌詞がよいのです。

新しい朝が来た
希望の朝だ
喜びに胸を開け
大空仰げ
ラジオの声に
健やかな胸を
この香る風に開けよ
それ、一、二、三




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 17偈

17 森は楽しい。世の人々はここで楽しまないが、情欲のない人々はここで楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

(ダンマパダ99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昔は、電車の中では、新聞や本を読んでいる人がほとんどでしたが、今ではみんなスマホをやっています。何をやっているのかと思ったら、ゲームをやっているのです。このような人々は森の中では楽しめないだろうと思います。もっとも、森の中にスマホを持っていって、そこでゲームを楽しむかもしれません。

「森は楽しい。」というのは、スマホなしで、森の中の生活を楽しんでいるのです。

森の生活は困難です。ゴータマ・ブッダのおられた時のインドの森は猛獣や蛇、危険は動物がいたでしょう。今の日本の森でも、電気やガスがなければ、生活は困難です。

それでも、その困難にまして、情欲のない人々は森の生活を楽しめるのです。困難が楽しいと思えるのです。困難が楽しいというのは、都会の人々がわざわざ森に行って、キャンプを楽しむということでもわかります。

それよりまして、森には都会の騒音がないのです。しかし、小鳥のさえずりや水の流れる音が聞こえるところもあります。心は静かになり、落ち着きます。すべてがありがたく、楽しくなるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 16偈、16A偈〜16E偈

16 つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに勤めはげむ者は、情欲にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。  

(ダンマパダ8 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。___岩山が嵐にゆるがないように。

16A つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、憎しみにうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16B つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、迷妄にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16C つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、慢心にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16D つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、貪りにうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16E つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、愛執にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回の16偈、16A偈〜16E偈は、昨日掲載した15偈、15A偈〜15E偈と対をなすものです。

「この世のものを不浄であると思いなして」とありますが、世の中のものに、価値を置いて執著しないことと考えて良いでしょう。
若い時は、何かに熱中して、興奮して生きることが、楽しい充実した人生だと考える傾向にあります。確かに、それも一つの人生であり、そのようなこともありますが、その際にも、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに勤めはげむことが必要なのです。それにより、情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執などによって、悩み苦しむことがなくなります。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 15偈、15A偈〜15E偈

15 つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、情欲にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

(ダンマパダ7 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるように。

15A つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、怒りにうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15B つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、迷妄にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15C つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、慢心にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15D つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、貪りにうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

15E つねにこの世のものを浄らかだと思いなして暮らし、感官を慎まないで、食事の節度を知らず、目ざめているときに下劣な者は、愛執にうちひしがれる。___弱い樹木が風に倒されるようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

感興のことば(ウダーナヴァルガ)には、15偈の次に、15A、15B、15C、15D、15Eと五つ偈が続きます。内容は15偈の「情欲にうちひしがれる。」の部分が、怒り、迷妄、慢心、貪り、愛執に変化しているのみです。ですから、15偈を理解し、怒り、迷妄、慢心、貪り、愛執などの煩悩と言われるものが理解できれば、これらの偈をわかったと言えます。
さて15偈ですが、「この世のものを浄らかだと」思うことについて、私の過去のブログでは、世の中のものを主に肉体と考えて、肉体は不浄なものであるという記述を多くしてきました。

ゴータマ・ブッダの言葉にもそのようなものが多くあります。私は理解が浅かったということがありますが、ゴータマ・ブッダは、衆生が肉体の感覚に執着し、快楽を好み、お美味しいものに執着することが多いので、このように説いたのです。

しかし、この世のもの実体は、不垢不浄(ふくふじょう)なのです。よごれてもなく、浄らかでもないのです。それがわかれば、世の中のものに執著することがなくなります。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 13偈、14偈

13 大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、夜も昼もころげまわって寝て、まどろんでいる人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、愚かにも、くりかえし母胎に入って(迷いの生活をつづける。 

(ダンマパダ325 大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

14 つねに心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を知っている人にとっては、諸の(苦痛の)感覚は弱まってゆく。寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

修行者は、心のコントロールも大切ですが、食事について自制することも大切です。何故ならば、食事にたいする考え方、食事に対する態度はその人の心の現れだからです。

14偈の「寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く。」の意味は、寿命をたもちながら、徐々に老いるという意味です。

ダンマパダ325について、2008年10月、2009年8月、2010年6月に解説しました。興味のある方は参考にしてください。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_23.html

http://76263383.at.webry.info/200908/article_17.html

http://76263383.at.webry.info/200810/article_8.html




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 11偈、12偈

11 端麗な容貌によっても、動作を見ることによっても、いかなる人(の心)も識り得ない。この世ではよく身を慎しんでいる人のように見せかけて、(その実は)慎しみの無い人々が、その世を闊歩している。

12 まがいのものもあり、香煙をあびた耳輪のようなものもある。金のメッキがしてある半マーシャ(重量の名)の銅のように、或る人々はつき従う仲間をつれて歩き廻っているが、内心は不浄で、外側だけ立派なのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

衆生は、端麗な容貌や優雅な動作を望んでいるのでいて、人の心の状態に関心がないのです。ですから、端麗な容貌によっても、動作を見ることによっても、いかなる人(の心)も識り得ないのです。

仏は、外見には興味がありませんから、人の心がよくわかります。

「この世ではよく身を慎しんでいる人のように見せかけて、(その実は)慎しみの無い人々が、その世を闊歩している」ことがよくわかります。

世の中には、まがいのものが多いのです。内心は不浄で、外側だけ立派なのです。本物の内心は清浄なのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 9偈、10偈

9 諸の欠点を断ち、ターラ樹葉の尖(さき)のように根絶やしになり、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。

(ダンマパダ263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。)


10 欺いて、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ名前とかたちだけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

(ダンマパダ262 嫉みぶかく、吝嗇(けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。) 


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「端正な人」について、以前次のように解説しました。
https://76263383.at.webry.info/200907/article_4.html

「端正な人」とはパーリ語の「サードゥルーパ」の訳ですが、「きちんとしていること。行儀や姿が整っていて、乱れたところがなく、立派でこと。」と辞書にあります。外見から判断される様子を示す言葉のようです。ですが、ブッダは「サードゥルーパ」は外見よりも、内面、心のあり方をについて述べられています。つまり、弁舌爽やか、容姿端麗ということではなく、嫉妬深く、吝嗇、狡猾な心を根絶して、除去し、怒りを吐き出した人が「端正な人( サードゥルーパ)」だと述べておられるのです。

これらの偈を読むと、論語の「巧言令色鮮なし仁」(こうげんれいしょくすくなしじん)という言葉と、老子の「信言は美ならず」(しんげんはびならず)という言葉を思い出します。昔の聖者、賢者と言われる方々は同じようなことを言っています。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 7偈、8偈

7 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制と柔和とが無いのでのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。 

8 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と柔和とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

(ダンマパダ9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。) 

(ダンマパダ10 けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

よほど鈍感でない人ならば、今は世界が大きく変わろうとしていて、また変わっていることに気がついているでしょう。それは地球レベルでも、人間の社会についても言えることです。
何を言いたいのかと言えば、ゴータマ・ブッダの時代では、出家して、解脱を目指す人はまれでした。しかし、今では、本人が解脱をする意思がなくとも、今は解脱しなければ生きづらい時代になっているのです。生きづらいことに甘んじている人々にとっては、それに気づかないでしょうが。

その上で、「黄褐色の法衣をまとおうと欲する人」とは、出家しょうとする人々ですが、今ではすべての人々です。人々は「自制と柔和」が必要なのです。そうではない人々は人間としてふさわしくないのです。そうでなければ、生きていくことが困難なのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 5偈、6偈

5 (経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執著しているのである。

6 思念して熱心に清らかな修行を行なっている人々は、ここで(自分が)いだき、あるいは別々の人がいだき、この世でいだかれ、またかの世についていだかれる一切の疑いをすべて捨ててしまう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ6・9 人々は対象に馳せ寄るけれども、その真髄には至らない。次々と新たな束縛を増やすのみ。灯火に落ち込む蛾のごとく、見るもの、聞くものにとびつくという仕方で、ある人々は対象に執著する、と。)

(ウダーナ5・7 三昧に入り、熱心に清浄行を行ずる者は、この世であれ、かの世であれ、自ら感ずる疑いにせよ、他人の感ずる疑いにせよ、すべての疑いを捨てる、と。)

(「原始仏典八 ブッダの詩Ⅱ 」講談社発行より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回は5偈、6偈のそれぞれに、ウダーナ第6章の9と第5章の7に同様の趣旨の偈がありますので、それを引用しました。理解の参考にしてください。

5偈は、人々は見るもの、聞くものに興味を示し、執著し、悩み苦しむことになると説かれています。もちろん、そのような人々は覚ることはないことはないのです。

6偈では、見るもの、聞くものによって、心を汚されることなく、心を清らかにする人は、真実を明らかにして、すべての疑い(疑問、迷い)が無くなることが説かれています。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 3偈、4偈

3 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

4 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。


(ダンマパダ11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。) 

(ダンマパダ12 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は」、そもそも真実(まこと)が大切であることを知りません。それゆえに、真実(まこと)に達しないのです。

「まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は」、すなおな人なのです。このような人は、ついに真実(まこと)に達するのです。つま、覚りに至るということです。

以前、ダンマパダ11、12の解説にアンデルセンの童話「裸の王様」を話題にしました。少し前には、「忖度」という良い言葉が、世間の人々に汚されてしまいました。今回の偈はその実情を明らかにしています。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 1偈、2偈

1 太陽が昇らないあいだは蛍が輝やいている。しかし太陽が昇ると、にわかに暗黒色となり、輝かない。

2 そのように、如来が世に現れないあいだは、(仏教外の)思索者たちが照らしていた。しかし世の中が仏によって照らされると、思索者は輝かないし、その人の弟子も輝かない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

思索者たちとは、考える人々です。思索者は人の知恵(人智)で生きている人々です。

如来(=仏、ブッダ)は、考える人ではない、如来は仏の智慧(仏智)で生きているのです。

人々は、如来が現れないあいだは、人智によって覚ることができると思っていますが、仏があらわれると、仏智によって覚ることがわかります。

仏智は、化身(善知識、善友)によって、法の句として、この世に現れます。功徳を積んでいる人は、その因縁によって、その法の句を聞くことができます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 39偈、40偈

39 また悪いことをして、善いことをしないならば、悪いことをした人は、禍のもとを身に受けて、福徳を捨てて、この世で死を恐れる。___大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人のように。

40 善いことをして、悪いことをしないならば、善い人々が福徳のもとを昔(むかし)行なったのであっても、決して死を恐れない。___堅固な舟で河を渡る人々のように。 

以上第28章 悪

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ブッダの比喩はいつも素晴らしい。説かれたことが生き生きと理解できます。

大水(おおみず)のさ中に難破した舟に乗っている人の恐怖はどのようなものでしょうか。舟は沈み、死を待つ以外にないのでしょう。

一方、善いことをして、悪いことをしない人は、堅固な舟で河を渡っているのですから、嵐が来ても大丈夫ですし、そのような人が舟で河を渡るときには嵐がこないのです。彼は快適な舟の旅を楽しんでいるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 38偈

38 善いことをしたならば、ひとは快(こころよ)く楽しむ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは快く楽しむ。人に知られずにしたことであっても、ひとは快く楽しむ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに快く楽しむ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、昨日掲載した37偈の「ひとは喜ぶ。」が「ひとは快く楽しむ。」に変わったものです。

「喜ぶ」と「快く楽しむ」とどう違うのか?

善いことをした時の気持ちは、「喜ぶ」とも「快く楽しむ」とも表現できますが、実際に自分が善いことをして、それを感じてください。もっと素晴らしい言葉が出てくるかもしれません。あるいはそれを言葉にできないかもしれません。しかし、何かがわかるはずです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 36偈、37偈

36 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

37 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、先日掲載した32偈の「その報いがあるのだから、ひとは憂える。」の部分が「悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。」となっています。

37偈は、33偈の「その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。」の部分が「幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。」となっています。

「悪いことをした報い」と「善いことをした果報」を、それぞれ少し具体的に述べたものです。

これらの偈を読むと、法界というものを想起せざるを得ません。

法界については、SRKWブッダの感興句「法界の存在」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana119.htm

(以下引用)

【法界の存在】

一大事において法界から法(ダルマ)が出現するということは、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているということである。そして、法界はこの世の悪行も決して見逃さない。それで、善き人は善き処に生まれ、悪しき者は死してのち地獄に堕ちる。

ところで、もし解脱という明らかな現象が無いならば、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているとか、法界はこの世の悪行も決して見逃さないなどとは言えないであろう。しかしながら、解脱がはっきりとした現象である以上、法界の存在とその働きを信じざるを得ないのである。如来は、荒唐無稽のことは説かない。如来は、知り得たことを知り得たままに説くからである。

(以上引用)





  

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 34偈、35偈

34 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

(ダンマパダ15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。)

35 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。

(ダンマパダ16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。悪いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいるでいるでしょうか、そんなことはないはずです。イライラ、ムシャクシャしているのです。それを忘れるために、酒を飲んだり、大騒ぎをしている人もいます。後悔して落ち込んでいる人もいるでしょう。犯罪を犯した人は捕まるかもしれないとビクビクして、不安です。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。つまり、ふたつのところで共に憂えることになるのです。ですから、悪いことはするべきではないのです。

来世のことはわからなくとも、この世のことはわかります。善いことをした人の心はどうでしょうか? 喜んでいます。なんとなく、心がうきうきします。善いことをして、よかったなと思います。善いことをした人の顔も声も態度も喜びに満ちています。このような人の周りにはやさしい生きものが集まってきます。

もし、来世があったら、そのような状態が来世も続くのです。こんな楽しいことはないでしょう。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 32偈、33偈

32 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。その報いがあるのだから、ひとは憂える。

33 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

32偈、33偈の偈も、ゆっくりと声をだして、少なくとも3度、読んでほしい。

悪いことをしたならば、ひとは憂える。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。
秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。
その報いがあるのだから、ひとは憂える。

善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。
ずっと昔にしたことだとか、
遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。
人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。
その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。


これらは詩なのだから、その読んだほうがよいのです。少なくともブッダの偈はそうする価値があります。これらの偈を訳された中村元氏の訳はその任にたえるものです。

眼だけで読めば、頭だけで読むことになります。しかし、声を出して読めば、声帯がふるえ、身体が感じます。その声は空気をふるわせ、耳でも感じます。その響きは、世界にひろがります。ですから声を出して読んだほうがよいのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 31偈

31 この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。その果報があるのだから、安心しておれ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

例えば、不安になって、眠れなくなった時など、この偈を思い出してください。自分がした善いことを思い出せない人は、自分が赤ちゃんの時に、お母さんに微笑んだことを想像してください。お母さんはあなたの微笑みを見て、幸せになったのです。これはあなたの始めの善いことです。

もう一度、この偈を声をだして、ゆっくり読んでください。きっと心が落ち着いて、眠れるようになるでしょう。


この世で善いことをしたならば、安心しておれ。

その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、

遠いところでしたことであっても、安心するがよい。

人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。

その果報があるのだから、安心しておれ。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 30偈

30 悪いことをしたときは気をゆるすな。その悪いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、気をゆるすな。秘密のうちにしたことであっても、気をゆるすな。それの報いがあるのだから、気をゆるすな。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

30偈で述べられていることは、ダンマパダ127(大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。)ということによります。

しかし、ダンマパダ173で、次のように述べられています。

「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。」

この偈は、以前は殺人鬼であったアングリマーラが、ブッダに出会い、懺悔して、善によってつぐない、解脱した事にちなんんで、説かれたものです。

「気をゆるすな。」とは、「懺悔して、善によってつぐなえ。」ということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 26偈〜29偈

26〜29 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに陥るあろう、___(1)親族の滅亡(ほろび)、(2)財産の損失、(3)国王からの侵略、(4)恐ろしい告げ口、(5)激しい痛み、(6)身体の傷害、(7)重い病い、(8)乱心、また(9)その人の家を火がすっかり焼いてしまう、(10)第十として、聡明な智力がなくなって(老いぼれて)、身がやぶれたのちに、悪いところ(=)地獄に生まれる。

(ダンマパダ137〜140 手むかうことなく罪咎(つみとが)の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速かに出会うであろう、___(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
感興のことば26偈〜29偈とダンマパダ137〜140の罰の順番は少しことなりますが、内容はほぼ同じです。ダンマパダ137〜140については、10年前の2009年4月6日にその解説を書きました。それを引用します。参考にしてください。
https://76263383.at.webry.info/200904/article_6.html

(以下引用)
 脅しで信仰を強要する宗教がかなりあります。例えば、異教徒の神を信じると地獄に落ちるとか、ある種の食べ物を食べると神の怒りに触れるとかいろいろあります。

 仏教には脅しはありません。もっとも仏教と名乗っている宗教団体はたくさんありますので、その中には、脅しで信仰を強要する団体もあるかもしれません。しかし、釈尊はそのようなことは、一切していませんし、そのようなことは一切言ってはいません。ですから仏教と名乗っていてもそれは、釈尊の教えと無関係の団体です。

 釈尊は真理を述べているのです。その真理は私たちが幸せになる教えなのです。そして、それをよく理解して、実践するように述べられています。決して理解せずに、信じろとは言いません。今回の詩の内容についてもその通りなのです。私たちは直ぐには理解できない所もありますが、よく考えれば分かることなのです。

 私が分かる範囲で説明しましょう。「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」とうなるでしょうか。私たちの心には良心と言われるものがあります。分析すると、慈悲喜捨の心です。すなわち、人々が幸せになってもらいたいという心、困っている人を見ると助けたいと思う心、人の喜びに共感する心、物事を分け隔てなく平等に見る心です。これらの心は人間にはあるのです。もちろん、その心は育てられてなければ小さく、弱いものですが、あるのです。しかも、欲や怒りや無知の心もありますので、その機能は抑えられている場合が多いのです。しかし、良心と言われる慈悲喜捨の心はあります。

 「暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうならば」、その良心は、自分を責めることになります。自分の良心に責められた自分の心は、自分の身体を攻撃します。それは、身体の痛みや、傷害、病気など、いずれかの現象をもたらすのです。自分の良心に責められた自分は何事にも自信を持って行動できません。いつも何かやましい心で行動するのです。心は暗くなります。そうすると仕事に失敗するようになり、友達や家族や親族ともうまくいきません。それらの人々の間で喧嘩になるかもしれません。喧嘩に多い、暗い家族の財産は増えることはありません。面白くないので、大酒を飲んだり、馬鹿な無駄使いをしたりするからです。もう詳しく書くことはないでしょう。

 釈尊は、暴力で、無抵抗な罪なき人々を損なうという不正を働く人々の行為の結果を分かりやすいように十にまとめて示してくれているのです。不正を働くと私たちの良心が痛むのです。そうならないように、不正を働かないように注意してください。
(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 23偈、24偈

24 僅かでも悪をしたならば、つねに来世に苦しみを生じ、大きな禍を生じることになる。___毒が腹の中にあるようなものである。

25 僅かでも善いことをしたならば、来世に安楽をもたらし、つねに大きな福楽生じることになる。___穀物が積もり集まったようなものである。(やがてすばらしい果実を生ずるであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人間の行為は、潜在意識に記憶され、自分が忘れていまっていても、それがいつも支配しているということです。

僅かでも悪をした人は、意識できなくとも、それがいつまでも気になって、その人の思いや行為に影響をあたえますから、暗くなり、楽しみを削減します。それは大きな禍です。生まれ変わってもよいことがあるはずはありません。

逆に、僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくなります。それはその人の人生によい影響をあたえます。生まれ変わってもその影響は続きます。

人間は、良いことも、悪いこともしますから、その場合はどうなるのでしょうか考えてください。

僅かでも悪をした人は、暗くなり、楽しくないのですから、また悪をする傾向になります。そのため、悪を続けるのです。それが問題なのです。

僅かでも善いことをした人は、明るくなり、楽しくありますから、善をする傾向になりますから、問題ありません。

僅かでも悪をした人は、勇気をだして、懺悔してください。

懺悔については、SRKWブッダの理法「懺悔の根底にあるもの」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou315.htm

(以下引用)
【懺悔の根底にあるもの】
懺悔(さんげ)の根底にあるものは、「自分は間違っているのではないか?」と言うことではない。懺悔の根底にあるのは、「自分は恥 ずかしいことをしているのではないか?」と言うことである。他ならぬ自らの行為について省察し、心に問うて、その真実を明からめたとき、解脱の機縁を生じ る。

ただし、修行者は懺悔によって解脱を果たすわけではない。解脱と同時に──おそらく解脱が一瞬早く生じその後──懺悔を生じ得るということである。
(以上引用)




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 21偈、22偈

21 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。 

22 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

(ダンマパダ117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。) 

(ダンマパダ118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、11月1日です。111は、ラッキー・ナンバーというそうです。今日は良いことがあります。
さらに、1111は、エンジェルナンバーといって、幸運の数字というようです。
今までは知りませんでしたが、ユーチューブを見て知りました。

「この世には、何一つ偶然はない。」といわれますから、このようなことを知って置くと、このような数字を見ると、心が明るくなって、本当に本当に良いことがあります。それがたとえ悪いことのように見えても、それが良いことの前兆なのです。

今回、掲載した偈に戻ると、人は悪いことをするとはあります。しかし、それが悪いことだと気がついたら、勇気を出して止めてください。21偈に書いてある通りなのです。

また、善いことをしたら、それを繰り返してください。それが善い習慣になり、あなたに幸運をもたらします。