#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 36偈、37偈

36 悪いことをしたならば、ひとは憂える。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは憂える。秘密のうちにしたことであっても、ひとは憂える。悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

37 善いことをしたならば、ひとは喜ぶ。ずっと昔にしたことであっても、遠いところでしたことであっても、ひとは喜ぶ。人に知られずにしたことであっても、ひとは喜ぶ。幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、先日掲載した32偈の「その報いがあるのだから、ひとは憂える。」の部分が「悪いところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。」となっています。

37偈は、33偈の「その果報があるのだから、ひとは喜ぶ。」の部分が「幸いあるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。」となっています。

「悪いことをした報い」と「善いことをした果報」を、それぞれ少し具体的に述べたものです。

これらの偈を読むと、法界というものを想起せざるを得ません。

法界については、SRKWブッダの感興句「法界の存在」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana119.htm

(以下引用)

【法界の存在】

一大事において法界から法(ダルマ)が出現するということは、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているということである。そして、法界はこの世の悪行も決して見逃さない。それで、善き人は善き処に生まれ、悪しき者は死してのち地獄に堕ちる。

ところで、もし解脱という明らかな現象が無いならば、法界はこの世の徳行をつぶさに見ているとか、法界はこの世の悪行も決して見逃さないなどとは言えないであろう。しかしながら、解脱がはっきりとした現象である以上、法界の存在とその働きを信じざるを得ないのである。如来は、荒唐無稽のことは説かない。如来は、知り得たことを知り得たままに説くからである。

(以上引用)