#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 24偈

24 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王と(戒律と邪まな見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

24偈のカッコ内の文は訳者が補ったものです。このカッコを取った原文は次のようになります。

「母と父とをほろぼし、二人の武家の王と二人の博学なバラモンをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。」

これでは、意味がわかりませんが、母、父、二人の武家の王、二人の博学なバラモン、国土、従民というのはあるものを象徴です。

その意味するものを訳者が補っているのですが、2009年7月25日に、ダンマパダ294、295について解説していますので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200907/article_27.html

(以下引用)
「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきます。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解しておきます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っているのか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いです。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからです。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以下引用)