#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 37偈

37 心のうちには怒りが無く、変転する迷いの生存をとどめ、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人を、神々も見ることができない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ2・10 その心に怒りなく、こうである、こうでないという議論を超え、恐れなく、安楽な、憂いのない人を、神々の威力をもってしても見ることはできない、と。)

(渡辺愛子訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

パーリ語の感興のことば(ウダーナ)の第2章の10経の前文には、次のように書かれています。

カーリゴーダーの子のバディヤ長老は、在俗のとき、王としての楽しみを味わっていたはずであったが、森へ行っても樹の根方へ行っても、また人気のない土地を行っても、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発していた。

そこで、多くの比丘の疑問に答えるために、世尊は彼に「なぜ、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発しているのか?」と尋ねた。

バディヤ長老は次のように答えました。「私が在俗のとき、王として楽しみを享受していたときは、宮殿の内側の守備は固く、外側の守備も固く、都の内側の守備は固く、外側の守備も固く、国の内側の守備は固く、外側の守備も固かったのです。私はこのように守護され警備されながら、恐れおののき、疑い深く、怯えて暮らしていました。ところが、現在私は、どこに行っても、人気のない土地に行っても、独りでいても、恐れなく、おののきもなく、疑いもなく、怯えもなく、悩みもなく、安心して暮らしています。こういう理由で、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発しているのです。」と。

そのことを知って、世尊は上の偈(ウダーナ)を唱えたということです。

この経の前文は、以上ですが、世俗での楽しみは、王といえでも完全なものではありません。「心のうちに、怒りが無く、変転する迷いの生存をとどめ、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人」、すなわち、解脱した人の楽しみは完全な楽しみなのです。

「神々も見ることができない。」・・・神々も欲界の存在であるために、欲はあるのです。そのために、完全な楽しみを理解できないということです。




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