#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 51偈

51 村において、林において、快感や苦痛に触れられた人は、それを自分のせいにしてはならぬし、他人のせいにしてもならぬ。迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。迷いの条件の無い人に、触れられる事物の触れることがどうしてあろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 

(ウダーナ2・4 村で、森で、楽や苦を感じたら、それを自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならぬ。苦楽を感じるは執著による。執著がなければ何によって苦楽を感じることが起こるであろうか、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

51偈は、ウダーナ2・4の偈を参考にすると理解しやすい。

「快感や苦痛に触れられた人は」・・・「楽や苦を感じたら」ということです。

「自分のせいにしてはならぬし、他人のせいにしてもならぬ。」・・・「自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならぬ。」ということです。

「迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。」・・・「苦楽を感じるは執著による。」 

これは少し説明しなければわからないでしょう。迷いの条件に依存することとは、執著するということなのです。例えば、アルコールに依存している人はアルコールに執著しているようなものです。あるものに執著している人は、そのあるものに依存しているのです。

「触れられる事物が触れる」・・・「苦楽を感じる」ということです。

あらためて説明すると、快感や苦痛の思いは自分や他人によるものではない、執著(依存)によるのであるのです。執著(依存)のない人には快感や苦痛の思いはないということです。