#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 82偈

82 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、かれは全世界を照らしている。___ブッダはすべての束縛の絆(きずな)から解脱しているからである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「かれは全世界を照らしている。」とは、ブッダ(仏、如来)は人々に進むべき道を示しているという意味です。

かれがそれができるのは、「すべての束縛の絆(きずな)から解脱しているからである。」と説かれています。

「束縛の絆(きずな)」については、この章の72偈で説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_11.html

その要点は次の通りです。
(以下引用)

「一切の煩悩の汚れ」が「かれの束縛の絆(きずな)」なのです。

例えば、怒りという煩悩を考えましょう。怒りが現れた人は怒りに束縛されます。かれは穏やかな幸せな気分で居たくともそれはできません。

欲望という煩悩でも同じです。あるものに対する欲望が生まれた人には、どんな美しい風景のなかに居ても、その風景を楽しむことはできません。その人はその欲望に束縛されているからです。

しかし、真理を観ずることができるようになれば、かれの潜在意識は束縛の絆(きずな)は幻想であることを知るのです。それがわかれば束縛の絆(きずな)は消滅するのです。
(以上引用)



この記事へのコメント

自分
2020年07月21日 07:02
一切の束縛がない状態は

放課後の子供のようなもの

仕事を終えた会社員のようなもの

自由だ、バンザーイ🙌

だから光輝いてますよ

子供も大人も

「次は」が現れるまではね。

自由を得た輝きです

逆に言えば全世界と繋がれた自由です

誰かに何かに束縛されてないから

引っ張られないから

引っ張られてないから

全世界を対象とし自由に繋がれる輝きなんです
自分
2020年07月21日 08:48
法津如来の路線で行けば

「みな、なかまじゃない」と一つの生に対してでもいれば

その一つに対して怒りです

その一つ以外は「みな、なかま」という執着です

また

一つだけに対して「なかまだよ」ならその一つに対して執着です

一つ以外は「なかまじゃないよ」というなら一つ以外に対しての怒りです

一つも欠けることなく「みな、なかま」ならば「ない、いかり」なんです。判別する自分がいない
自分
2020年07月21日 08:54
「みな、なかま」は真理ですから

この肉体の中身全て仲間ですから

そのように

この全世界全て仲間ですから

執着ではない

しかし

「みな、なかま」でないというなら

真理に対する怒り
自分
2020年07月21日 14:06
また真理に執着したらどうなるか

至ればネハン

自分
2020年07月21日 14:08
みな、なかまで

ない、いかりに至り

ネハン